文鳥とピアノ

少しだけお付き合いください

読書案内〜ミヒャエル・エンデ『モモ』〜 人生は無駄の連続

去年くらいにNHKの「100分de名著」で紹介された『モモ』に興味を持ち、つい最近やっと完読できた。

 

社会人になってから通勤がなくなり、本を手に取る時間もなくなり、なんだか人間として大事なものがどんどん欠けてく気がしていた。

テレワークして通勤時間をなくし、スマホ決済で財布を出す時間をなくし、サブスクでツタヤに行く時間をなくし…

 

そこで、一つの疑問が浮かび上がる。

 

節約した時間は、どこに行ったのか?

 

時間が勝手に消えるわけがない。時間を節約したからって人間の寿命が減るわけじゃないし、誰かの時間になるわけでもない。

 

では、このように考えよう。

 

我々はより有意義なことに時間を使うために、無駄なことを省き、その分の時間を「時間貯蓄銀行に貯蓄している。

時間貯金も増えるし、その分我々は一歩資本主義上の成功へと近づく。一石二鳥だと思いませんか?

 

しかし、ここに落とし穴がある。

 

殆どの人間は自分が「時間貯蓄銀行に毎日何時間貯蓄しているか計算してないし、覚えてもない。日が落ちたら貯蓄した時間のことを忘れ、日が昇ったらまた貯蓄を始める。時間は目に見えないから、通帳で管理できないのだ。

 

そうするとどうなるかというと、灰色の男たちが世界中の貯蓄された時間を盗み、自分たちの葉巻にしてしまうのだ。時間は本当は一輪一輪の花の形をしていて、灰色の男たちは工場で花を葉巻に加工し、葉巻を吸って生きています。葉巻がなくなると、彼らは消えてしまう。

 

世界中の人間が皆「時間貯蓄銀行」を利用するようになり、灰色の男たちに支配されようとした頃、モモという少女が男たちに立ち向かいます。モモはお金を持っていないが、お金以外の全てを持っているような女の子です。灰色の男たちはモモを非常に恐れている。なぜなら彼女は、お金がなくても幸せになる方法を知っているからです。

 

ここにきて、この灰色の男たちが何のメタファーなのか気付く方もいるかもしれない。さらに、モモが我々ほとんど全員の中に持っている何かであると感じるかもしれない。しかしここで筆者の考えた答えを述べるのもあまりにも無粋なので、是非皆様には『モモ』を手に取って読んでほしい。

 

そう、灰色の男たちの目を盗んで、こっそりと。

モモ (岩波少年文庫)

 

 

 

国語の教科書に載っていた話をひたすら思い出す〜『温かいスープ』〜

今回紹介するお話は…

 

今道友信『温かいスープ』

 

全文はこちら。

ignis.exblog.jp

 

皆さんは、今まで読んだ本の中で、最も美味しそうだった料理は何ですか?

 

筆者は迷わず『温かいスープ』に描かれたオニオングラタンスープだと答えたい。

 

思い出せばそれを初めて読んだのは中学校の国語の授業中で、朗読する生徒の声から語られる、第二次世界大戦後という少し重めな時代背景が印象的でした。

 

主人公はパリにいて、日本人だから下宿も見つからず貧乏な暮らしをしていました。

 

それは当時香港から帰国し、転校したばかりの除け者だった私の心情にぴったり寄り添い、主人公へ感情移入することはそう難しくありませんでした。主人公は月末になるとお金に詰まるので、いつも通っているレストランの一番安いオムレツだけ頼んで帰ります。

「恥ずかしいなあ〜私だったら恥ずかしくて通えなくなるなあ〜」なんて、授業中に思った記憶があります。

 

そのうち事情を察したお店の娘さんは、主人公にパンを一枚サービスしてくれる様になります。それから毎月、月末になるとパンを一枚サービスしてくれます。

 

その何ヶ月後のことです。また月末がやってきました。非常に寒い夜で、雹まで降っていました。主人公は相変わらず涼しい顔でオムレツだけを頼み、隣のお客さんが美味しそうな肉料理を食べてるのを横目に見ながら料理を待ちます。そして、やってきた料理は…

 

「オニオングラタンスープ〜どっしりパンと盛り盛りチーズをのせて〜」

※料理名は筆者の妄想です

 

「お客さまの料理を取り違えて、余ってしまいました。良かったら召し上がってくださいませんか?」と、白髪のおかみさん。

教科書挿絵より

こんなサービスをされて、感動しない人がいないわけがありまけん。「私」はどっしりしたオニオングラタンスープをひとさじひとさじかむようにして味わう。その描写は間違いなく、世界一美味しい料理そのものでした。

 

私は空いたお腹を抑え、どうにかそれを鳴らさないように気をつけながら、昼休みが来るのを首を長くして待ちました。

 

その空腹は、物理的な空腹というよりも、一種の優しさや愛情への空腹だったのかもしれません。オニオングラタンスープは何と言っても、優しさで温められたスープだったのです。当時中学生の私は、オニオングラタンスープというのはスープだけど、冬のお腹の空いた夜に食べる温かい料理で、噛むようにして味わうものなのだと知りました。田舎で近所にイタリアンと呼べる店がガ○トくらいしかなかったのですが、絶対そのオニオングラタンスープとやらを食べてみたいと思ったのです。そして、それをひとさじひとさじかむようにして食べようと思ったのです。

おしまい

 

前回の教科書のお話はこちら>>

palette0819.hatenablog.com

 

映画案内〜ラピュタのパズーとシータから見るENFPとISFPの関係性〜

天空の城ラピュタ [DVD]

金曜ロードショー良かったですね。

特に「君をのせて」をカットしなかったのが大正解です。カットされてたら憤死する所でした。

 

ジブリと言えば、よく男の子と女の子の関係性を軸にして物語を進めたりしますよね。日本のボーイミーツガール作品の宝庫です。

 

私が昔から観て思ってることは、よくもあんなに沢山違うタイプのキャラクターを作り、みんな男女で仲よく、お互いの良さを引き出し合いながら物語を完結させられるなと。現実はそううまく行かなく、物語ならではの美しい一面を拡大させてるのもありますが、ジブリの人間関係からは沢山の気付きを得ることができます。

 

ジブリキャラクターのタイプにつきましては、こちらのMBTIについてのまとめをご参照ください。

motivation-up.com

 

シータとパズーの話に戻りますが、上のサイトからも分かる通りかなり相反する性質を持った2人になります。それはラピュタの中の数々の場面から、特に前半のラピュタを一緒に探すか探さないかのゴタゴタから、「かなりすれ違ってる2人」の印象を受けます。

これは男女のすれ違いとドーラは言ってますが、性格によるすれ違いも多少あるのでは?と思います。

 

作品中のパズーとシータのセリフ

パズー

「けど、僕の父さんは嘘つきじゃないよ。今、本物を作ってるんだ。きっと僕がラピュタを見つけてみせる」

「やーるぞぉー!きっとラピュタを見つけてやるー」

シータ

「私何にも知りません…石がほしいならあげます…私達をほっといて…」

「本当はラピュタなんかちっとも行きたくない。ゴリアテなんて見つからなければいいのにって思ってる…

 

こうして見ると、なんでワクワクくんパズーと、平和主義なシータが一緒に冒険しているのかが不思議なくらいです。

 

では、なぜ物語が上手くいくかと言うと、私はその2人の「共感力」が抜群に高いからと思ってます。

 

シータが見張りの時に「本当はラピュタなんかちっとも行きたくない」とぼやいたとき、パズーは怒ることなく、「あのロボットのこと?…かわいそうだったね。」と慰め、100点の応えを瞬時に返すことができます。

シータはパズーと一緒にいるためなら飛行船の壁をよじ登ってでも会いに行き、ラピュタでワクワクしてるパズーを否定せず、優しく見守ります。現実の大人だったら、「危ないことしないで地元で働いて!」って言いそうです。

 

つまりは、お互いの考えを否定さず受け止め、自分の望みとは別に切り分けをしているのです。

「自分がそうしたいから相手にもそうしてほしい」ではなく、

「あなたはそう考えるのね、私は私で違う道を進みます」

という若干ドライにも見える態度が裏にあるのだと思います。

 

ちなみに、小説版で描かれている2人のその後は、

パズーはスラッグ渓谷の鉱山へ、シータはゴンドアの谷へ帰った

ことになっています。

2人は別々で暮らし、パズーは完成した飛行機でシータに会いに行きます。

 

なんか見覚えありませんか...?

アシタカ「それでもいい。サンは森で、私はタタラ場で暮らそう。共に生きよう。会いに行くよ」

 

好きだからといって一緒に暮らす必要はない、離れ離れでも共に生きることに変わりはない。

 

これが、宮崎駿の出した、人間関係を上手く築く方法への答えの一つのように思えます。

 

おしまい

アイロンがけの話

部屋干し洗濯バサミの写真

 

朝、久しぶりに早起きして、歯を磨き、顔を洗い、

クローゼットの中から長く眠らせていた水色のワイシャツを引き出してアイロンがけをする。今日は日曜日だから、ゆっくり丁寧に時間が進む。

 

サラリーマンになってからアイロンがけが必要なシャツはあまり着なくなった。朝は時間がないし、その余力もない。でも本当は、ワイシャツが好きだった。

 

ワイシャツを着ると、何だか心が整った気持ちになる。ちょうどスーツを身にまとうと、社会人としてのペルソナを自然と被れるのと同じだ。いつもだらだらしているから、私はちゃんとした服を着た方が心のバランスが取れてちょうど良くなるのだ。

 

しかし心が疲弊すると、服はだらしなくなってしまう。これ以上縛られたくないと思う。シャワーの回数は2、3日に一回になってしまう。食事はしなくなる。生活のリズム何もかもが崩れてしまう。

 

週末になると、私は必ずアイロンがけをする。

一週間のドタバタを整え、皺くちゃになった思考を伸ばし、今日一日の計画についてゆっくり思案する。

 

そのような時間を過ごせたことは、きっと私の人生の中で幸せだったことの一つになるに違いない。幸せは日常の瞬間に間違いなく存在しているのだ。

夏の贖罪

逆光と一本の木(美瑛)の写真

 

妹が警察に捕まった話。

 

某年の夏、妹が警察に捕まりました。

 

私は家で呑気に冷やし中華を作ってて、ちょうどきゅうりを切っていましたとき、

スマホから電話がかかってきました。

 

着信画面を見ると、相手は大学生の妹。

「もしもし〜久しぶり〜」

「……ぐすん」

 

え、なに?泣いてる・・?

 

「どした〜(笑)」と私。

「いま…けいさつしょにいて…ぐすん」

 

え・・警察?あの警察?

 

「ぐすん…友達から…自転車もらって…それでつかまって…ぐすん」

 

え……何もわからない。

 

「…とりあえずどこにいるの?」

「けいさつ…」

 

あ、それはもう聞いたんでした。

 

「周りに誰かいるの?警察の人とか…」

「いまかわる…」

 

ドキドキ。

「○○警察署××ですー。あ、ご親族の方ですか?」

 

…ほんまに警察やん。

 

「はい。」

 

もう緊張してハイとかいいえしか言えない…

 

「妹さんがですね、自転車の窃盗容疑で聞き取りされてまして、一人では不安そうなので後でお迎えにきていただきたく…」

 

云々。

 

もう「窃盗」あたりから覚えてないし。

 

まとめると、妹の留学生の友達から譲り受けた自転車が盗難車で、その留学生の友達も実は他の人から貰ってて、その先のルートもよくわからず…

 

まあ今回はちゃんと事情を話し、善意の第三者として事なきを得ることになりました。

 

自転車の譲渡はくれぐれも慎重に行わないといけませんね。

映画案内〜これまずくない?『竜とそばかすの姫』の反社会的メッセージ性〜

令和4年の銃撃事件により地上波放送が延期となった、『竜とそばかすの姫』

アマゾンプライムで視聴できたので、感想を書いていきます。

 

結果から言うと、筆者はこの作品をかなりまずいと思ってます。

作品の出来への評価ではなく、作品を通して監督が伝えようとしているメッセージがまずいと思ってます。

これは100%筆者の感受性によって受け取ったものであり、必ずしも正しいわけではない。

ただ、何万人中の一人が受け取ったということは、他にもそう感じた人はいる可能性があるということです。

 

では、具体的にどこがまずいのか、1点ずつ整理していきます。

 

※この先ネタバレがありますのでご注意ください。

※かなり辛口評価ですので、ファンの方は速やかに離れてください。

 

竜とそばかすの姫

 

その1 権力は悪であり、弱者でも世界を救うことができる

今回の作品でも、社会の負の一面が沢山描写されました。

 

仮想世界Uで正義を気取り、自警団を名乗る筋肉バカ、ジャスティン。

最後まで傍観者でいる主人公と仲の悪い父親。

主人公が救おうとしているケイくんとトモくん、を虐待している彼らの養父。

口先ばっかりで何の役にも立たない児童相談所

 

権力を悪役にしている作品は世の中山ほどありますし、細田守の世界観では珍しくはないが、今回のは一社会人から見るとあからさま過ぎるし、少々不愉快だった。岡田斗司夫も言っていたように、大人がかっこいいアニメは近年ますます減ってきていて、それに関しすごく残念に思う。

それとも、本当に日本の社会は権力が救いのないほど腐敗しきっているのか?

 

挙句の果てに、児童相談所がすぐに動かないから、四国から東京に夜行バスで飛んでいってしまう主人公。

 

いや…この青春の感じ、わからなくはないですよ。

極悪人の虐待親父が、目力の強い女子高生を目の前にしただけで怯んでしまい、尻餅までついてしまうように話を作りたくなる気持ちも。

 

新海誠なら許せたのに、なぜ細田守は許せないのだろう…

 

思うに新海監督は、主人公の根底にある社会的弱さみたいなものを描いているが、細田守はその辺りにあまり触れていなかったから、違和感を感じずにはいられないのかもしれない。

 

田舎のJKが普通に上京したら電車もバスも間違えるし、道なんてわからないし、そんなにすぐに目的を果たせるわけがない。

 

その辺りのところを、新海監督ならもうちょっと丁寧に作っていたかな。

 

そして大人はみんな傍観者という訳ではないし、主人公一人の力ではなく、道中色んな人に助けられながらケイくんとトモくんを助けに行く、とかの方が視聴者も納得できるんじゃないのかな。

 

その2 仮面を被ったままではダメ。本当の自分を曝け出せ

筆者が最も反感を覚えたのは、主人公が仮想世界でオリジナル(現実の姿)を世界に見せ、竜(ケイくん)に見せて信頼を勝ち取るシーン。

非常に感動的で、現実と仮想世界が交わった、神々しいシーンでした。

しかし、

 

「結局現実のありのままの姿でしか、人間は分かり合えないのか?」

「仮想世界に逃げ、仮面を被るのは結局甘えなのか?」

「<U>の世界は結局、現実に居場所がない人間の救いにはなれないのか?」

 

つまり、

「結局<U>の世界は何のためにあるの?」

と言う点が非常に疑問です。

最終的には現実で何もかも解決しなかればいけない、

だったら最初から全部現実の出来事にしてもいいのでは?

主人公は現実にいる覆面美少女シンガーで、ケイくんは現実にいるテロリスト。

…物語にインパクトはなさそうですが。

 

サマーウォーズにとって、OZはネットのハッキングをイメージ化するための物語上のツールであり、不可欠な要素だが、

 

<U>は竜とそばかすの世界であまりにも役不足である。

 

その3 女の子はミステリアスなイケメンに群がるもの

これについてはまあ許せます。

最終的に、学校のマドンナが変人扱いされてる男子のことを好きだと判明しているし。

監督、きっと女子による学園ヴォーゲームのあのシーンがやりたくて仕方なかったんだろうな。

面白かったです、ありがとうございます。

 

 

 

以上かなり滅茶苦茶なことを書いてますが、映像と歌は素晴らしく、キャストにプロじゃない方を採用する挑戦的な姿勢も個人的に好感を持てる(出来はともかく)。

 

ぜひご覧になってみてください。

 

おしまい

教習所で特定の教官とよくあたる現象

止まれの標識の写真教習所の思い出、ありますか?

 

都会で車なんて運転しないからとずっと免許を取っていなかったのですが、いよいよ旅先で不便になってきたので教習所に通い始めました。

 

社会人なので週に2日程、通いで取ってます。

 

毎週特定の曜日にしか行かないせいか、非常によく当たる教官がいらっしゃるのです…

 

頻度で言えば、技能教習3,4回に1度は当たります。

ちなみに教習所には、計50名程の教官が在籍してます。

 

…なんですか、この現象?

 

たしかに毎週特定の曜日の特定の時限を予約してるから、そういうこともあるかもしれないのですが…

 

にしても、気まずい…

毎回教えていただいてる訳でもないので、なんだか疎遠になりかけた友達と会ってるみたいです…(言い方)

 

なんとかならないのでしょうか。いっそ教官を固定にしてくれたら、気まずさも感じなくなりますのに…