文鳥とピアノ

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国語の教科書に載っていた話をひたすら思い出す〜『失われた両腕ーミロのヴィーナス』〜

今回のお話は清岡卓行の『失われた両腕ーミロのヴィーナス』です。

 

随筆集『手の変幻』に収録されている随筆です。

『手の変幻』は残念ながら絶版となりましたが、有り難いことに、電子版は読めるみたいです。

手の変幻 (講談社文芸文庫)

 

一部抜粋はこちら

ameblo.jp

 

『失われた両腕ーミロのヴィーナス』(以下『ミロのヴィーナス』)は高校の現代文の教科書に載っていた話でした。当時ミロのヴィーナスを読んだ後に、たまたま国語の教師から『手の変幻』の文庫本を借り、作者の他の「手」にまつわるエッセイを読むことができました。

その中でも『ミロのヴィーナス』は随筆集のトップバッターを務め、後続のエッセイのための一つの布石となっています。

 

Wikipediaより

 

『ミロのヴィーナス』は評論文ほど論理的に説得する内容ではなく、かといって小説ほどドラマチックな物語の展開があるわけでもない。しかし、その文章からひたすら溢れ出すミロのヴィーナスの美しさに私は打ちのめされました。

教室にいた私は、まるで自身がパリのルーヴル美術館の、丁度ミロのヴィーナスの前にいる気持ちでした。静寂の中、ただ自分とヴィーナス像だけがそこにいました。四方八方からその彫刻を眺め、その滑らかな肉つきと際どい布の流れを眺め、しばらく両腕が失われていることを忘れ、何時間も時が経っていることを忘れるだろう。

ミロのヴィーナスの今の形は、きっと製作者(古代ギリシアの彫刻家、アンティオキアのアレクサンドロス作と言われている)の意図する美の形ではなかった。ミロのヴィーナスには元々美しい両腕がついていて、それが彼の思う美しいヴィーナスだっただろう。さらに、そのヴィーナスの美しさは両腕にこそありと思っていたかもしれない。

一方で、現代でその両腕の復元を望んでいる人が、はたしてどれだけいるのだろうか。両腕がどんな形だったかを知りたい人間は五万といるが、いざそれが復元されたら、きっと私たちはもうミロのヴィーナスへの興味を失ってしまう。これは芸術作品における作者論と読者論の話でもある。

note.com

大人になってから『ミロのヴィーナス』を読み直し、この「ない方が美しい」論は実に様々なものに当てはまると思いました。それは芸術作品についてのみではない。

中学のあの初恋が実っていたらどうなっていただろう?や、職場のあの綺麗な女性は休日どのように過ごしているのだろう?や、なんとなく忘れられないドラマのワンシーンのタイトルや、身を焦がすほど待ち望んでいる作品の結末。

私たちがどうしても手に入れたい、欲しい、待ち望んでいるものは、この上なく素晴らしいものの可能性がある。しかし、時には自ら意図してその未完成さを守ることが、美しいまま残す手段になるのではないのだろうか。

酸っぱい葡萄ではない。私たちはその葡萄が世界一甘いということを知っている。

そして、ただ知っていて、想像したり、手に入れようと努力したりするだけでいいのです。でもいつか、もし予想しない角度から真実が襲いかかってきたら、真実を隠すという選択肢をしなければいけない。

その未完成さが、自分にとって大事であればあるほど。美しければ美しいほど。

 

前回のお話

 

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