文鳥とピアノ

少しだけお付き合いください

国語の教科書に載っていた話をひたすら思い出す〜『檸檬』〜 音楽的な文章と絵画的な文章

今回のお話は梶井基次郎の『檸檬』です。

全文はこちら

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紙の本は角川文庫の表紙カバーが素晴らしいのでおすすめです。

檸檬 (角川文庫)

 

教科書で『檸檬』を読んだのがいつだったのか覚えていない。残っている教科書の中を探してみても、見つからない。中学校の同級生に聞いたら「中学んときにあったねその話」と言い、高校の同級生に聞いたら「高校の現文でやらなかったけ?」と言い、大学の同級生に聞いたら「教科書にはなかった。本で読んだ」と言う。社会人になると、もうほとんど周りにそんなことを覚えている人はいなくなった。一緒にレモンケーキなんかを食べながら、同僚に「こう言う話で、こんなことがあって、レモンがなんとか」と言っても、「へえ、本がお好きなんですね。渋い趣味してますね」と返ってくる。私にとって学生時代というのは、価値観の似た友人がなんらかの因縁で周りに寄せ集められた、貴重な人脈の宝庫だったのかもしれない。

 

梶井基次郎の『檸檬』は10ページにも満たない短編である。田舎の学生だった私はそれを恐らく教科書で読んで、初めて素敵な文具を売っている「丸善」という本屋があることを知り、京都の街並みは北から南へ流れていることを知り、本屋に爆弾を仕込んでそっと出るスリルを知った。檸檬の色、香り、重さについては知っていたはずなのに、なんだか梶井基次郎の目から見ると、それはキラキラと光る別の世界の、別の果物のようにも見えた。

話が逸れるが、文章というのが大きく分けて「音楽的」なものと「絵画的」なものに分けることができるというのは、耳にしたことがありますでしょうか。個人的なざっくりな見解では、

「文章や構成にリズム感があり、緩急が気持ち良い」「会話のテンポがいい」「朗読したくなる」

このような文章は「音楽的」な文章だ。

一方で、

「色彩描写が多い」「一枚の絵のように場面が目に浮かぶ」

このような文章は「絵画的」な文章と言える。

「音楽的」な文章の典型とも言えるのが村上春樹の小説だ。文章は音楽の流れのように読んでいて気持ちが良く、無駄な描写が削ぎ落とされている。話の中に音楽の題名が乱立し、それが「おしゃれ」「カッコつけ」「スカしてる」という評価に繋いでいる一因とも言える。

「絵画的」な文章を書く作家として、夏目漱石がそうと言える。夏目漱石が書く文はひたすら美しい。さらに『草枕』では徹底的に「美とは何か」について論じていて、夏目漱石自身が多くの美術についての知識を有していることが窺える。

メタなことを言えば、作者自身が音楽と絵画のどちらにより通じているかが、文体に反映され、「音楽的」「絵画的」な印象を作り上げているのだ。どちらか一方の要素しか含んでいない文章はなく、どちらも全く含んでいない文章も勿論ない。「音楽的」「絵画的」というのは、「どの要素がより前に出ているか」だけの話である。

他にも詳しく論じている面白い記事が沢山あるので、暇を持て余している方はどうぞご覧になってください。

roomba.hatenablog.com

梶井基次郎は間違いなく後者の「絵画的」な方である。美しいものへのこだわりが強く、他の短編からも美術の知識が豊富であることがわかる。

本棚から久しぶりに『檸檬』を抜き出して読み、社会人になってからの生活の無味乾燥さを改めて実感することとなった。本質的な美しさに気づく機会が減り、新しい刺激もなくなり、家にあった檸檬を見つめてみても、それはただの檸檬に過ぎなかった。

それもそう、家の冷蔵庫ではなく、本屋のガチャガチャした色彩で固められた、画集の頂上に据えられてないといけないからだ。

そう考えていると、いいことを思いついた。そうだ、休日に丸善に行こう。私はもう丸善が大型チェーン店であることを知っているし、檸檬がスーパで98円で売られていることを知っているし、ドブ色の東京湾の近くに住んでいるし、借金に追われることも憂鬱のどん底に落ちることもほとんどない。

それでも丸善に行こう。自分の手によってしか現実は変わらない。日常に爆弾を仕掛けないと芸術は生まれない。行動しないと爆発は起きない。それがたとえ錯覚だとしても、一日を変えるくらいの威力はあるはずだ。

 

おわり

 

注:丸善の宣伝ではありません。書物と果物は正しく扱いましょう。

2019年に訪れた丸善日本橋店の写真

 

前回のお話

 

palette0819.hatenablog.com