文鳥とピアノ

少しだけお付き合いください

階段恐怖症のはなし

 

私は上りの階段が恐ろしく怖い。

 

駅にある20段以上の階段や、神社の長い石段、ショッピングモールの長いエスカレータが恐ろしくてたまらない。

最初の一歩は踏み出せるものの、二歩、三歩と続くと、途中で力尽きてしまう。

それは脳内にある途方もない落下への妄想だったり、次を踏み外すのではないかという足への不信頼感だったり、確実性のないあらゆる思念を一つのツボに放り込んで、ともに喰らいあっているそれを抱えながら登っているせいである。

上を見上げ、実際にはそれほどの高さでもないと頭では分かっているものの、

終わりが見えないほど途轍もなく長く見える。次を踏み外すかもしれない…その次を踏み外すかもしれない…足を替えている最中にバランスを崩すかもしれない…

私はいつもそのようなことを考えながら階段を、手すりにしがみつきながら登っている。

 

人と付き合うことは階段を登るのに似ている。

 

一度、二度だけ会えばよいと分かっていれば、楽に話せる。

これから何回会うかもわからない、これで最後かもしれない、また会ってしまった…

そのような先が不確実で、長いようで短いような、終わりの見えない階段のような人間関係が苦手だ。そのような人と会って話している最中に、私は度々階段の途中で止まっているような、宙ぶらりんな恐怖と虚しさに襲われる。足元にうまくピントが合わず、もうここで終わらせてしまえたらどんなに楽かと考えてしまう。同じ人と会い続けるよりも、新しい人と会うほうがずっと楽だ。

 

いつからそのようになってしまったのだろう。学生時代は毎日同じ同級生と会うことが決まっていて、選択の余地がなかったから、階段を登るよりも、ベルトコンベア上で流されているような気分だった。自然と相性がいい人とは仲良くなり、合わない人とは離れていった。

社会人からは大分変わってしまった。誰と付き合うか、誰と一緒にいるかはある程度選択の余地が生まれてしまった。そう、自由が生まれてしまった。自由が生まれたからには、きっともっと幸せになれるだろうと誰もが考えるだろう。しかし、人間関係の自由は私にとっての苦痛でしかなかった。私は人との距離がうまく測れないから、いつも階段から転げ落ちる気分だった。ベルトコンベア上にない人間関係を、どのように続けて行けばいいかわからない。そもそも続けるべきなのか、やめるべきなのか、その判断すらつかない。私はただ階段があとどれくらいあるのかが知りたいだけなのに、思わず後ろを振り返ってしまって、自分が今いる高さに眩暈がして、意識が遠のくのです。

 

人間関係にも手すりのようなものがあればいいのにとつくづく思う。