夏の匂いとは
毎年この季節になると、遥か昔のことを思い出す。
窓を開けると初夏の風が部屋に流れ込み、体がぬるい空気に包まれると同時に、どこから運ばれてきたのか分からない若葉の匂いと、微かな潮の匂いが混ざった風が鼻に届く。
そうすると私はどうしようもなく怒涛の記憶の波に押し寄せられて、自分が今立ってる場所を見失ってしまう。
目を瞑ると、まるで記憶の波に自分の脚が時空を超えた場所に運ばれるような感じがする。それは十数年前の軽井沢の記憶だったり、何年か前の鴨川の記憶だったり、いつ行ったかも忘れた熱海の道の駅の記憶だったりする。
或いは時間も場所も違う記憶が全て混ざりあった結果、「十数年前の軽井沢」というひとつの概念としての初夏の記憶が現れるのかもしれない。
しかし今の私は軽井沢にも鴨川にもいない。
灰色のビル群の中で、誰の役に立つのかも分からない、ただ時間を潰すための仕事をし、特に何も考えずに毎日を過ごしている。
何事も深く考えてしまうとどうしようもなく悲しい気持ちになってしまうから、考える時間はない方が人間にとって幸せである。
ただふとした瞬間に、どこからともなく記憶が羽のように降ってきて、それに誘われるように旅に出たくて仕方がなくなる。私が今自由でいられるのは夢の中だけかもしれない。