映画案内〜ラピュタのパズーとシータから見るENFPとISFPの関係性〜
金曜ロードショー良かったですね。
特に「君をのせて」をカットしなかったのが大正解です。カットされてたら憤死する所でした。
ジブリと言えば、よく男の子と女の子の関係性を軸にして物語を進めたりしますよね。日本のボーイミーツガール作品の宝庫です。
私が昔から観て思ってることは、よくもあんなに沢山違うタイプのキャラクターを作り、みんな男女で仲よく、お互いの良さを引き出し合いながら物語を完結させられるなと。現実はそううまく行かなく、物語ならではの美しい一面を拡大させてるのもありますが、ジブリの人間関係からは沢山の気付きを得ることができます。
ジブリキャラクターのタイプにつきましては、こちらのMBTIについてのまとめをご参照ください。
シータとパズーの話に戻りますが、上のサイトからも分かる通りかなり相反する性質を持った2人になります。それはラピュタの中の数々の場面から、特に前半のラピュタを一緒に探すか探さないかのゴタゴタから、「かなりすれ違ってる2人」の印象を受けます。
これは男女のすれ違いとドーラは言ってますが、性格によるすれ違いも多少あるのでは?と思います。
作品中のパズーとシータのセリフ
パズー
「けど、僕の父さんは嘘つきじゃないよ。今、本物を作ってるんだ。きっと僕がラピュタを見つけてみせる」
「やーるぞぉー!きっとラピュタを見つけてやるー」
シータ
「私何にも知りません…石がほしいならあげます…私達をほっといて…」
こうして見ると、なんでワクワクくんパズーと、平和主義なシータが一緒に冒険しているのかが不思議なくらいです。
では、なぜ物語が上手くいくかと言うと、私はその2人の「共感力」が抜群に高いからと思ってます。
シータが見張りの時に「本当はラピュタなんかちっとも行きたくない」とぼやいたとき、パズーは怒ることなく、「あのロボットのこと?…かわいそうだったね。」と慰め、100点の応えを瞬時に返すことができます。
シータはパズーと一緒にいるためなら飛行船の壁をよじ登ってでも会いに行き、ラピュタでワクワクしてるパズーを否定せず、優しく見守ります。現実の大人だったら、「危ないことしないで地元で働いて!」って言いそうです。
つまりは、お互いの考えを否定さず受け止め、自分の望みとは別に切り分けをしているのです。
「自分がそうしたいから相手にもそうしてほしい」ではなく、
「あなたはそう考えるのね、私は私で違う道を進みます」
という若干ドライにも見える態度が裏にあるのだと思います。
ちなみに、小説版で描かれている2人のその後は、
パズーはスラッグ渓谷の鉱山へ、シータはゴンドアの谷へ帰った
ことになっています。
2人は別々で暮らし、パズーは完成した飛行機でシータに会いに行きます。
なんか見覚えありませんか...?
アシタカ「それでもいい。サンは森で、私はタタラ場で暮らそう。共に生きよう。会いに行くよ」
好きだからといって一緒に暮らす必要はない、離れ離れでも共に生きることに変わりはない。
これが、宮崎駿の出した、人間関係を上手く築く方法への答えの一つのように思えます。
おしまい
映画案内〜これまずくない?『竜とそばかすの姫』の反社会的メッセージ性〜
令和4年の銃撃事件により地上波放送が延期となった、『竜とそばかすの姫』。
アマゾンプライムで視聴できたので、感想を書いていきます。
結果から言うと、筆者はこの作品をかなりまずいと思ってます。
作品の出来への評価ではなく、作品を通して監督が伝えようとしているメッセージがまずいと思ってます。
これは100%筆者の感受性によって受け取ったものであり、必ずしも正しいわけではない。
ただ、何万人中の一人が受け取ったということは、他にもそう感じた人はいる可能性があるということです。
では、具体的にどこがまずいのか、1点ずつ整理していきます。
※この先ネタバレがありますのでご注意ください。
※かなり辛口評価ですので、ファンの方は速やかに離れてください。
その1 権力は悪であり、弱者でも世界を救うことができる
今回の作品でも、社会の負の一面が沢山描写されました。
仮想世界Uで正義を気取り、自警団を名乗る筋肉バカ、ジャスティン。
最後まで傍観者でいる主人公と仲の悪い父親。
主人公が救おうとしているケイくんとトモくん、を虐待している彼らの養父。
口先ばっかりで何の役にも立たない児童相談所。
権力を悪役にしている作品は世の中山ほどありますし、細田守の世界観では珍しくはないが、今回のは一社会人から見るとあからさま過ぎるし、少々不愉快だった。岡田斗司夫も言っていたように、大人がかっこいいアニメは近年ますます減ってきていて、それに関しすごく残念に思う。
それとも、本当に日本の社会は権力が救いのないほど腐敗しきっているのか?
挙句の果てに、児童相談所がすぐに動かないから、四国から東京に夜行バスで飛んでいってしまう主人公。
いや…この青春の感じ、わからなくはないですよ。
極悪人の虐待親父が、目力の強い女子高生を目の前にしただけで怯んでしまい、尻餅までついてしまうように話を作りたくなる気持ちも。
思うに新海監督は、主人公の根底にある社会的弱さみたいなものを描いているが、細田守はその辺りにあまり触れていなかったから、違和感を感じずにはいられないのかもしれない。
田舎のJKが普通に上京したら電車もバスも間違えるし、道なんてわからないし、そんなにすぐに目的を果たせるわけがない。
その辺りのところを、新海監督ならもうちょっと丁寧に作っていたかな。
そして大人はみんな傍観者という訳ではないし、主人公一人の力ではなく、道中色んな人に助けられながらケイくんとトモくんを助けに行く、とかの方が視聴者も納得できるんじゃないのかな。
その2 仮面を被ったままではダメ。本当の自分を曝け出せ
筆者が最も反感を覚えたのは、主人公が仮想世界でオリジナル(現実の姿)を世界に見せ、竜(ケイくん)に見せて信頼を勝ち取るシーン。
非常に感動的で、現実と仮想世界が交わった、神々しいシーンでした。
しかし、
「結局現実のありのままの姿でしか、人間は分かり合えないのか?」
「仮想世界に逃げ、仮面を被るのは結局甘えなのか?」
「<U>の世界は結局、現実に居場所がない人間の救いにはなれないのか?」
つまり、
「結局<U>の世界は何のためにあるの?」
と言う点が非常に疑問です。
最終的には現実で何もかも解決しなかればいけない、
だったら最初から全部現実の出来事にしてもいいのでは?
主人公は現実にいる覆面美少女シンガーで、ケイくんは現実にいるテロリスト。
…物語にインパクトはなさそうですが。
サマーウォーズにとって、OZはネットのハッキングをイメージ化するための物語上のツールであり、不可欠な要素だが、
<U>は竜とそばかすの世界であまりにも役不足である。
その3 女の子はミステリアスなイケメンに群がるもの
これについてはまあ許せます。
最終的に、学校のマドンナが変人扱いされてる男子のことを好きだと判明しているし。
監督、きっと女子による学園ヴォーゲームのあのシーンがやりたくて仕方なかったんだろうな。
面白かったです、ありがとうございます。
以上かなり滅茶苦茶なことを書いてますが、映像と歌は素晴らしく、キャストにプロじゃない方を採用する挑戦的な姿勢も個人的に好感を持てる(出来はともかく)。
ぜひご覧になってみてください。
おしまい
アニメ紹介〜『輪るピングドラム』〜京騒戯画とみる果実の持つメタファ〜
まわピン10周年おめでとうございます。
気づいたらリメイクの劇場版が始まってて、気づいたら前編がとっくに公開終了してて、気づいたら配信も終了してて、ぶっつけ後編から観るのを迷い中です。平日は映画館に脚を運ぶ暇もなし、休日は家でアマプラ三昧。サラリーマンは辛いよー。
『輪るピングドラム』は知る人ぞ知る鬼才幾原邦彦監督の作品で、1995年に起きた地下鉄サリン事件をテーマに、「ほんとうのさいわい」について描いた宮沢賢治『銀河鉄道の夜』の半透明なオマージュである。
ここで半透明と表現したのは、そのあまりにも突出したオリジナリティによって、作品がほとんどオマージュの形を保っていないからです。
しかし、そのテーマと、林檎や電車というメタファ、作品の重要人物であるヒロインに妹という役割を与えたこと(宮沢賢治の作品の根底には妹への想いが大部分を占めている)、その妹が牛乳嫌いであること…など挙げたらキリがないのである。
オマージュという呼称はいまいちとは思うものの、より適切な表現があったら教えてください…
さて、筆者がまわピンを初めて見たのは2年前になりますが、実はその前に『京騒戯画』というアニメを観てどハマりしてました。それはどういう話かというと、「神様がノリで子供とその子供の住む世界を作ってみたが、めんどくさくなったので全部子供に任せて自分は神様を辞めた」というクソニートのような話である。
その後にマワピンを見て、自分の感じた両作品の共通点は3つありました。
1.血のつながりのない兄弟が果実を分け合い、深い絆を得ること
2.神様の存在が明示的にないし暗示的に存在し、物語の根幹を支配していること。
3.とにかく難しくて意味がわからない
3番がいちばん大事です。(笑)
今回は1番について、考察という名の取り留めない拙筆を走らせていただきます。
※ネタバレ注意
アニメ未視聴の方は、話が全然わからないと観る気も失せる!場合以外、先に作品の視聴をお勧めします。
京騒戯画とみる果実の持つメタファ
1.苹果
まわピンでは、苹果(りんご)が物語の中心となって三兄弟の運命を変えています。
苹果≒ピングドラム≒運命≒命≒愛
です。
また、物語には苹果という名前の女の子がいて、彼女もまた運命を変えるという役割を持っています。
果実の苹果が登場したのは晶馬が陽毬をこどもブロイラーから救う、冠葉の父親の葬式時に陽毬が冠葉を救う、最後と同時に第一話で冠葉が死んだ陽毬を救う場面です。そうやってみると確かに苹果が回ってますね(小並感)。
さらに、最後の運命の乗り換えで苹果(名実ともに)が現れ、本来3人では回りきれない輪に自分自身を差し出すことで陽毬を運命から救い出します。
苹果はきっとカンパネルラの役割を持っていたのですね。ただ女の子が死ぬのは可哀想なので、最後は晶馬が男らしく代償を肩代わりしてあげます。
2.柘榴
京騒戯画の柘榴(ザクロ)は、
柘榴≒命≒役割
かなと思います。
柘榴が初めて登場したのは、死んだ少年だった頃の主人公を神(後に無責任ニートだと判明)が気まぐれに拾い、その妻(ただのうさぎの擬人化)と石榴を与えて主人公が生き返るシーンである。そのせいで主人公(明恵)は不死となり、後に出会った妹に「俺を殺してくれ」と願うようなメンヘラ男になってしまう。
しかし、物語を通して成長した明恵は、物語の終盤では神様である父のせいでヤンデレ化した()妹を助け、柘榴を与え、世界再建の役割を共に担うという健全なハッピーエンドへと向かう。
まわピンに比べたらあっさりした物語の構成であるが、面白い作品なので是非観てみてください。
3.トマト(道草フィールド)
まわピンと京騒戯画を紹介したが、最後にレヴュースタァライトのトマトについて。
レヴュースタァライトの監督古川知宏さんはまわピンの監督幾原邦彦の弟子なので、描写に相似している箇所が多いです。運命を表すのに列車を使ったり、日常にいきなり動物を入れたり、たまにポエマーなセリフがあったり…
自分がいちばん印象に残ったのはトマトの使い方です。レヴュースタァライトのトマトは
トマト≒燃料
です。
燃料とは、舞台少女であり続けるためのモチベーションとか、命を燃やすための燃料と考えるとしっくり来ます。真っ赤なトマトがとにかく映像映えするので綺麗でした。
最後に
ここで挙げたアニメの他でも、色々な果実をメタファーにしている作品があります。どれも新約聖書の禁断の果実から由来していますが、みんなイチジクをメタファーには使わないのですね。率直すぎるからかな?
ところで、りんごもざくろもトマトも、断面がハートだからかわいいですね。
おしまい
「プロフェッショナル仕事の流儀 庵野秀明SP」ークリエイターとは何かを問う
テレビは全く観ない筆者ですが、アマプラにも飽きてきた頃に
「NHKオンデマンド」に加入しました。毎月1日課金なのでタイミングとしては丁度良かったです。
元々『100分de名著』目当てで加入したのですが、港で噂の庵野秀明スペシャルが気になって観てみましたので感想をだらだらと書いておきます。
庵野秀明の名前を知ったのは大学3年の頃でした。
当時仲良かった友達が新世紀エヴァンゲリオンの大ファンで、それはもう家にはエヴァの漫画が並びアスカのフィギュアが並び、ニワカには気安く語られたくない作品としてエヴァを心の中に大事に仕舞っているような人だったのです(このようなエヴァンゲリオン廃人はどのような青年の集まりにも必ず一人はいる)。
結果として私はその影響を受け、「一般常識としてエヴァンゲリオンを知っている」レベルから「エヴァンゲリオンが好きなニワカのオタク」に成り上がりました。
当時彼に勧められた『アオイホノオ』を読み、庵野秀明というエヴァを作った人について知りました。
今回の特集は『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』公開に向けて制作されたドキュメンタリで、取材期間は4年。4ヶ月ではなく、4年です。果たして今までこれほど長い期間をかけて密着した番組はあるのでしょうか。内容としてはひたすら庵野監督が作品を制作している様子と現場の地獄絵図を撮影した物なので、アニメ、映画に興味がない方にはつまらないかも知れません。
まず、取材を担当していた久保田暁ディレクターが優秀なのが素人目でも分かります(小並感)。
エヴァンゲリオンという国民的アニメのディレクター(自由人で神出鬼没、気まぐれでなかなか心を開かない使徒のような人物)を取材するに当たり、きっと番組の表では見えないような努力と苦労を積み重ねられたはずです。しかも4年間も。
最初は言葉も物理でも距離が遠かった庵野さんが、1年経ってようやく食事に誘ってくれて、編集中に意見を求めるほど距離を縮められました。
撮影中は『僕を撮っても意味ないよ』『もっと現場の様子を入れて』などと注文をつけ、熱海合宿の取材では『嵐が一番激しい時に外で撮ってこい』と指示をするまでです。いや、あなたNHKのディレクターじゃないでしょ(笑)。そんな無鉄砲な使徒みたいな人を撮るのは視聴者には想像できない程の苦労が多かったと思います。その過酷だと思われた取材を通してでも、庵野監督を目の前にして怯むことなく?視聴者が気になる質問をしてくれたことは素晴らしいと思います。例えば今回のシンエヴァは今までの劇場版から作り方をガラッと変えているのですが、その理由の一つに庵野監督は『絵コンテだけでは自分のエゴが出過ぎてしまう、アニメは肥大化したエゴの塊だ』とお話ししてました。なるほど、確かにシンエヴァは今までの分かりにくい庵野ワールド丸出しのエヴァとは思えないほど、視聴者に寄り添った作品になっています。筆者は意味のわからないエヴァの方が好みだったりしますが、それはさておき…それで取材した女性は『なんでそう(今までのエヴァが肥大化したエゴだと)思われたんですか?』と質問しました。それに対して庵野さんは『内緒。』と答えてくれませんでしたが、きっと大事なことだから話せなかったのだと思います。肝心はことは口に出さず、口に出すことはコロコロ変えるところが庵野さんにはあるんだなと見ていて思いました。あとは恥ずかしいと思ったことも口に出しません(笑)。そういうところがアスカ(宮村優子さん)に「少年少女」と評されるのかも知れません。
ところで、この庵野秀明SPは通常の75分版とBSで再編集した100分版『さようなら全てのエヴァンゲリオン』があります。どちらも庵野秀明という人物を上手く引き出せていると思うのですが、前者はより彼の異質さに、後者は庵野監督の作品への真摯さが現れています。当たり前かも知れませんが拡張版の方がより深掘りがされていて、編集も面白いです。
最後のシーンで試写会が終わって、制作の方々が涙ながら『面白かった』『やって良かった』と階段から降りてきます。きっとクリエイターは、この瞬間のために生きているのだと、そう感じられる作品でした。