文鳥とピアノ

少しだけお付き合いください

誰が為に働く

ショッピングモールで買い物してたら、いつの間にかサービスカウンターでポイントカードを作ることになった。

 

ポイントカードは概して嫌いだ。カード自体溜まりに溜まって置く場所にも困るのに、肝心のポイントは雀の涙だったりする。極力ポイントカードは作らないようにしているが、作ってしまったものは仕方がないのだ。

 

私は渡された紙に名前と住所と使わなくなった古いメールアドレスを書き込み、目の前のサービス係に渡した。50代くらいの女性で、顔には皺が目立ち始めている。化粧は薄いが口紅の発色はきちんとしており、グレーの制服、青いスカーフも含めて全体的に心地よい清潔感を感じられる。若くない分語り口は落ち着きがあって上品だった。彼女は丁寧に微笑んで私から紙を受け取った。一字一句を確認しながら、パソコンに打ち込む作業に取り掛かった。

 

退屈な待ち時間の間、私は彼女のあまり速くないタイピングを眺めながら、その人の家庭や子供、余暇や人間関係について想像することにした。子供はいるのかどうか分からないけど、いるとしたらきっと私と同い年くらいなのだろう。夫はパチンコに入り浸り、女手一つで家庭を支えている可能性もある。彼女の同僚はおよそ一般的なオフィスの事務職と同じ様に、20代〜50代と年齢の幅が広く、表面上は和気藹々と、それでいて皆必要以上に干渉せず距離を保った付き合いをしているのだろう。彼女らはそれほど仕事が好きという訳ではなく、マニュアルに沿った客対応とデータの打ち込み、無駄な朝礼と会議を続けている毎日だが、もう慣れてしまっただろう。疲れと裏腹な営業スマイルも板につき、ロボットのように決まった会話を繰り返す。

 

何故かその日、私は彼女のマニュアル通りの言葉や微笑み、カタカタとキーボードを打ち込むのを目の当たりにして、とても言い知れぬ安心感のような感情が生まれた。安心感に加えて尊敬や、有難みとそれ以上の様々な感情が混ざり合い、上手く掴み取れないが非常に優しい気持ちになれたのだ。

 

私は彼女を通して彼女の同僚を、そして世の中の働く人を見た気がした。辛さや息苦しさ、不満を全て抱え込み、そしてそれらを笑顔や言葉で慎重に隠して自分を保っているのだ。社会という巨大な歯車を回すという要求の元、自分を含め誰かの幸せを守る目的の元、働いているのだろうか。それを想像すると、すごくほっとした気分になったのだ。私たちは自分がひとりぼっちの存在だと思いがちだが、その大きな歯車を通してお互いと繋がっている。

 

想像することはとても面倒で疲れることだ。だけど想像しなくてはいけない、そんな気がした。私はポイントカードをデザインする人間や材料を集める人間、それを工場で作る人間、トラックで運ぶ人間のことを考えた。

 

彼らはどんな顔で仕事をしているのだろうか。どんな事を思いながら仕事しているのだろうか。どんな夢と現実を抱えながら仕事しているのだろうか。そしていつか仕事の役目を終え、人生の役目を終え、再び皆同じ終点に向かって旅立っていくのだ。

生き方はレールに沿ったもん勝ち?

生まれてからひたすら忙しくて自分のために生きられた気がしない。幼稚園のあとは小学校、

 

そのあとは中学校、高校、大学、一息ついて

 

就活、就職、転職、そのあとは

 

婚活、結婚、育児、付きまとうものは

 

仕事の心配、老後の心配、健康の心配、

 

人生の悩みって多いなあ。それなのに立ち止まって悩む時間すらないのは変じゃない。すぐに答えを出せ、決断を出せ、優柔不断になるなだのはっきりしろとか言われるし

 

もうちょっとゆっくり生きちゃだめかなあ。ちゃんと納得するまで考えて、悩んで、試行錯誤して

人生でそういう時間が必要な人間は沢山いるはずだ。特に生きにくい人が多いこの国ではね。

 

先生が「どうしても学校に来るのが嫌だったらせめて図書室で本を読んでて」なんて言ってくれる人だったら、

 

上司が「成功することに拘るな、失敗しても自分に言い訳しないように」って戒めてくれる人だったら、

 

両親が「人生は一度切りだから気にしないでやりたい事を貫け」と背中を押してくれる人だったら

 

悩む必要もあんまりなかったのかもしれないけどさ、今更遅いかなあ

 

とりあえず今は、窓の外の雨を見ながらゆっくり目の前のことについて考えよう。

 

漫画 君たちはどう生きるか

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君たちはどう生きるか (岩波文庫)

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倣夢十夜

夢日記というものを小さい頃は付けていたものの、日記という作業の煩わしさや毎年増えていく日記帳の管理、毎朝砂金を振るう作業のように寝ぼけながら断片的な夢を辛うじて文字に起こす苦行に耐えられなかった。

それでもやはり夢から逃れることはできない。現実でふと過去に見た夢が刹那的に浮かんできたり、記憶と夢が混交して頭を悩まし、デジャビュの正体を気になって仕方なく、ひいては現実で解決できない問題の答えのようなものを私は夢の中で無意識的に探していることに気づく。

さて、ここに溜まりに溜まった夢を吐き出すことにした。二日酔いのような吐き方ではなく、できるだけ丁寧に、慎重に、コーヒー豆の選別作業のように書いていきたい。嘘は本当に苦手だし、どちらかというと本当の事だけ考えて生きていきたいのだ。

 

 

その一

 

古いアルバムをめくっていた。そこには過去に付き合っていた恋人の写真や、見知らぬ人の名前、仲良くしていた友人が卒業時に送ってくれたメッセージが書き込まれていた。卒業アルバムのようだが、それにしても時系列がバラバラ過ぎる、思い返せば名前が顔に合っていない。田村が西山になっているし、知り合いの名前の上で知らない女の子の写真が載ってる。辞書のように分厚く、両手で抱えるのがやっとだった。私は低い書架の隣に立ってそれをめくっていた。周りはぼんやりとした黄色い光に包まれている。光のせいでアルバムの中身が良く見えないし、私はどうやら何かを探しているようでひたすらページをめっくては翻していた。それでも肝心な情報は一つも得られなかったようだ。

やがて隣に佐々木さんがやってきた。佐々木さんは私が中学の頃に仲良くしていた友達で、数少ない友人の一人だった。活発な子で、肩まで真っ黒な髪を伸ばしている。気が強い子だったが、そのせいか私と同じくらい世渡りが下手だった。好きな作家は星新一で嫌いなものはトマトジュース。私服のシャツとズボンを着ているけど何一つあの頃と変わりやしなかった。

「こんなところで何をしているの」と彼女は聞いた。彼女は私から三歩離れたところで、私の持っているアルバムを眺めた。

「探し物だよ」私は声にならない声で言った。実際声に出てたのは「あうあうや」のような不明確な言語だったのだ。私は少しだけ恥ずかしくなったが、その言葉は彼女にはちゃんと理解できたらしい。

「何を探しているの」彼女の声ははっきり私に届いた。彼女はうまく喋れるようだ。

「それはよくわからないんだ、でも兎に角この中にありそう」私は独り言のように呟いて、アルバムの文字と思わしきインクの痕跡を睨んだ。穴が開く程、目を見開いて見ても全体に薄い油紙が被っているようだ。それでも偶に読める箇所があるのは不思議なものだった。

「君こそ、ここで何をしているの?ここは僕の夢の中だよ」

彼女は特に驚かなかったようだ。私も勿論驚かなかった。それは始めから分かっていたことで、私はそれを彼女に言うべきだった気がしていた。

「佐々木さんは僕の夢の中で僕に話しかけているんだ。気付いてないの?」

彼女は少し歩み寄って、私の手の中のアルバムに手を添えながら読み始めた。あまりにも熱心に読むので私はそれを彼女に引き渡した。

「そうでしょうか」彼女は目をページから離さずに呟いた。「あなたが私の夢の中に居るのかもしれないよ。それにあなたが見ているのは本当の私なの?

私は言葉を失って彼女を見詰めた。本当に佐々木さんと瓜二つの女の子だ。しかし佐々木さんは私に敬語なんて使わない。今目の前にいるの彼女の姿をした何かなのだ。そのようにして私をからかうはずがない。私の目も前の彼女は誰なのだ?そして

 

「じゃあここは、一体誰の夢の中なんだ?」

最後の一言を言う間もなく、私は夢から覚めてしまった。そこにある天井は、まるで他の世界にある、他の誰かの部屋のものに見えた。

 

 

palette0819.hatenablog.com

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夢十夜

夢十夜

 

 

 

現実逃避について

現実逃避があるのなら、理想からの逃避もきっとありますよね。

 

小さい頃の夢を諦めたり、結婚や仕事で色んな事を妥協したり、辛いことに耐えるのも現実を受け入れているように見えるけれどもそれは理想を諦めたことにもなりますよね。

 

現実を受け入れなければいけない、折り合いを付けなければいけない、現実から逃げるのは弱い人間がすること。人間は現実に生きていて、そのように脳と精神が世界に適応してきた。現実から逃げて夢ばかり見る人は大人になれない社会不適合者で、弱肉強食の世界では地位と権力とお金を持つ現実に強い人間が勝つ。そう思うのも仕方のない事です。

 

しかし実際はそれほど簡単ではないはずですよね。成功者の中には、少なからず辛い現実をものともしない程に夢ばかり追いかけていた人間だっている。実際そのような努力なくして今の彼らはいません。

 

つまるところ、「現実」はそれぞれの人間にとって意味合いが異なってくるわけです。最近流れてきた話で、高校生が学校を中退し漫画家を目指す事に、プロの方からはやはり反対意見が多い。それは彼女(恐らく女の子だったはず)にとっての現実はやはり高校生活であると、良識ある大人はそう考えるからだ。しかし本当のところはよくわからないから、一度本人に聞いてみるしかないだろう。

「あなたには本当にマンガしかなく、物質的な生活に居る友人や家族を投げ出してまでその世界に取り組める自信はありますか?これからマンガより魅力的な現実が高校生活の先に現れるかもしれないが、それでも漫画家を目指しますか?」などとね。

 

彼女はこれから先きっと苦労するでしょう。特に女の子は大人になるにつれて一層「現実的」になるので、いつまでもネバーランドの住人でいることは難しい。それは生物的に、遺伝子の中にあらかじめプログラミングされている数値で、環境によって多少変わってしまうかもしれないが、三つ子の魂百までという諺に真実に近い正しさを感じずにはいられない。君は何歳になって彼氏が欲しくなって、どんな教科が好きになって、音楽と美術のどちらが得意で、理不尽でつまらない授業に対しどう思うかといったことは予め決められているのではないだろうか。それとも運命論なんて胡散臭いと思いますか。

 

ひとりひとりにとっての「現実」も、きっと最初からそれぞれの心の中にあるはずです。ここで言う「現実」は、ある種の「真実」に近いものだと思ってください。それがある人間にとっては安定した生活を手に入れることで、ある人間にとっては映画の世界の役者で居続けることで、ある人間にとっては自由な旅人でいる事です。お互いの現実は違ってるように見えるけど、よく見るとそれは全部同じことなのです。生き方がどんなに違っていても、生きてることに変わりはないからです。だから人生を旅に例えたり、劇場と例えたり、戦争と例える人もいるのでしょう。

 

自分は辛い時には人生を夢だと考えるようにしています。(怪しい宗教ではないですよ)そう考えると、終わりも見えない苦しさや現実の厳しさなどから一時的に逃れるようになります。すべての夢には終わりがあるように、すべての苦しみにも終わりがあるのです、勿論幸せにもですがそれは考えないようにしたいところだ。そして辛いことが続くと、寧ろ「夢」の方が現実味を帯びるようになってくるのです。小説や漫画、映画や旅、音楽を聴くとき眠るとき…今まで夢だと区別していたものが、現実に切り替わってしまうのです。今まで区別なんてしなければ、こう簡単に変な思考にハマることもなかったのだが…そもそも区別しないのが普通だったのでしょうか?中高の頃に抑圧されてきた自由が、世界が、一気に自分を侵食してしまったような気もします。

 

まとめると、あんまり自分の自然な意思を抑えてまで苦労して何かに打ち込むことは、目的を達成できる代わりに「なにか」から報いを受けてしまうのだと思う。心を殺すと、いつか心からの復讐を受けるでしょう。「現実逃避」なんて単語はさっさと死語になって、それより「現実認識」とか「理想調整」みたいなことを大事にした方がいいのではなかろうか。

 

それから

それから

 

 

夢と現実の境目はどこか

明晰夢をよく見ていた。最近はあまりないが、そういえば学生時代に夢の中で夢だと気付くことは多かった。夢の中で飛ぶことは非常に面白かった。夢の中では、自分は何でもできるのだ。飛べると思えば飛ぶことだってできる。大事なのはイメージすること、想像することである。

 

飛ぶときはまず、体の浮遊感を想像する。全身が軽くなって、まず地面から5センチくらい離れるところを想像する。体重がなくなり、月面に居るようなイメージだ。そうすると体が自然と浮かび上がり、そこから空を飛ぶのは簡単だ。地面が遠くなるところを想像するか、空に近づくところを想像する。そうすると驚くほど一気に体が空に飛ぶのだ。勿論空気が薄いことは頭にないので全く気にならない。無意識的に空気抵抗や酸欠を気にしていたら随分辛い症状が起こるかもしれないが。その頃自分は現実で空に飛べない事に対し非常に飽き飽きとしていたのを覚えている。駅の階段や歩道橋、窓際などで何度も体が浮くところを想像していたのだ。勿論現実では空を飛べないし、大気圏から日本列島を眺めることはできないし、飛行機なしで東京から京都や広島まで飛び街中をふらつくことはできない。思えば暇つぶしにグーグルアースで色んな場所を調べて、その時の記憶が無意識に脳裏に焼き付いて夢に出たのもあるかもしれない。

 

もう一つ、明晰夢でハマっていたというか、面白半分でひたすら飛び降りしていた時期もある。高い建物の上やマンホールの側から、ジェットコースタからなど…わざわざ高い所に行って飛び降りる作業を繰り返していた頃がある。夢の中で飛び降りると、大体最中に記憶が途切れて夢が中断されるのだ。それは自分が自分の体が地面に打ち付けられるところを想像したくないのか、或いは経験がないから想像できないのかが原因かもしれない。勿論そういうことは夢だと分かっていないとできない事だ。さらに言えば、精神状態が良くなく夢と現実を混同した状態でやるには非常に危険だと思われる。

 

さて、ここで一つ疑問なのだが、夢を夢たらしめるものは何だろうか?

 

記憶と夢は非常に近い位置にあると言える。自分に心理学的知見は毛頭も持っていないが、「夢はつまり思い出の後先」なんて粋なことを歌っていた井上陽水に敬意を示さずにはいられない。では、夢と現実の境目はどこにあるのだろうか?

夢と現実は全く背反したものではないのだ。寧ろ一方がもう片方を内包し、それらはマトリョーシカのようにお互いを繰り返し飲み込んでいるように思える。見た夢そのものは現実に起きたことだし、現実に起きた事、起きるかもしれない事が夢として現れることもある。さらにスピリチュアル(私はこの単語があんまり好きではないのだが)なことを言えば、人生そのものが夢だと考える思想は宗教や哲学、物理学などに良く表れる。仮想現実説と言うものなどですね。現実の定義、夢の定義を一度整理しなおさなくてはいけないかもしれない。

 

フロイトの夢判断、面白いです。

 

夢判断 上 (新潮文庫 フ 7-1)

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  • 作者:フロイト
  • 発売日: 1969/11/12
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夢判断 下 (新潮文庫 フ 7-2)

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  • 作者:フロイト
  • 発売日: 1969/11/12
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観覧車で捕まえて

19歳、私は上京して、小さめのアパートに住むことになった。初めてその場所を訪れたとき、私は都会から少し離れた、あんまり辺鄙ではなく、かといって賑やか過ぎないその町のことが気に入った。通りかかる通行人の少し呑気な顔や、街角でうろつく大儀そうな野良猫、点在する公園とちょっと多すぎるカラスは自分の性に合っていた。私はその町のことが割と好きだった。

 

何よりも、その町には大きな観覧車があった。朝の通勤路や昼の買い出し、夜のランニングまで、観覧車はいつも決まった方角で、決まった速さで回っていた。平日も休日も休むことなく、雨の日でも炎天下でも、月が掛かったりしても全く気にしない風に回っていた。私は昔から観覧車のことが好きだった。一度も乗ったことがなかったが、その壮大さや悠然とした時間の流れに非常に惹かれていた。私はこの町をいつか出るまでに、その観覧車に乗っててっぺんから街を、海を、自分の住む世界の在り方を全部見尽してやろうと思った。できれば好きな女の子と一緒がいいな…とか思ったりした。

 

私が22になった頃、いい感じの女の子がいた。それはあくまでもいい感じの関係であって、それ以下でも以上の関係でもなかった。私たちは偶に飲みに行き、終電まで語って夜道を一緒に歩いた。彼女は終電を逃さない人間なのだ。

 

ある夜、私達が駅まで歩いていると、丁度目の前にライトアップされた観覧車があった。随分遅くまで回っているなと思って私がぼんやり見ていると、彼女は確か、「なんでみんな、あんなものに乗ろうとするんだろうね」と言った。あるいは「誰があんなものに乗りたいんだろうね」と言ったのかもしれない。どっちにしろ言ってることは同じだ。彼女はそういう口調を持った性格で、そういう乗り物に好んでは乗らない質なのだ。「高い所が見たいからじゃない?」と私は適当に答えた。私は好きなんだけどなあ、観覧車。「そんなもんかあ」と彼女は言って、私たちはそれ以降何も話さなかった。

 

翌日、結果として、私は観覧車に乗ることになった。仕事帰り、ふらついていたらたまたま通りかかって、丁度暇だったのだ。私は単純な好奇心で一人で切符を買い、ひとりで階段を上り、ひとりでゴンドラを待った。スタッフはひとりで観覧車に乗る客を見てもそれほどおかしな顔をせず、前のカップルと寸分違わぬ調子で私を案内した。口角の上がり方までが自然そのものだった。一人で観覧車に乗る客はそう珍しくないのだろうか?彼らはそれぞれ何を思って一人で観覧車に乗るのだろうか?どんな気持ちでゴンドラに踏み入れ、どんな気持ちで戻ってくるのだろうか?

 

ゴンドラは狭いとも広いとも言えなかった。席のペンキは少し剥げた部分があり、窓ガラスは汚れや傷がついていた。私が道を歩く人間の顔や、ビルの看板、港の船などを眺めているうちに、あっという間に観覧車の頂に辿り着いた。あっという間過ぎてほとんど気付かないくらいだった。街の景色は予想を超えなかった。そこは私がいつも住んでいる町であり、少し遠くに海があり、その先は見えなかった。陽が落ちるせいか町は少し薄暗かった。私は何ひとつ町について、自分について新しく発見することができなかった。それはいつもの町であり、自分の住む日常であり、それ以上何も私に与えてくれない。自分が高い所に居る自覚もなく、そこが本当に頂点なのか確認する間もなく、ゴンドラは反対側に落ちていった。私は空中から町に落ちていくのを感じた。落ちるときのスピードは、登るときよりもさらに、何倍も速かった気がした。そして私は来た時のプラットホームに戻り、スタッフに少し先に見たものと同じ笑顔で迎えられ、同じ足取りで家路についた。

 

あれからいい感じの女の子とは疎遠になり、町も日に日に色褪せていた。私は観覧車が目につかなくなり、日常から一つ星が消えたのに気付いた。私は何がなんでも、あの時に観覧車に乗るべきでなかったのだ。うまく言えないが、私はまるで何年も丹念に描いていた絵画を、いかにもミーハーっぽい中年の太った女に何度も値下げ交渉されて、安値で売ってしまったようだった。

 

多分私は、自分の中の観覧車を現実から守る必要があった。ちょっとひねくれた女の子や、日常の退屈、無感情になっていく自分とか、誰からも暴力を振るわれないひっそりとした離島に隠してしまわなくてはならなかったのだ。小さい頃の夢とか、初恋とか、思い出のレストランとか、ふるさととか、そういうもの全てを。私は今までどれだけの夢を侵食されてしまったのだろうか。そしてこれからも様々な大事なものが失われ、運が悪かったらボロボロに砕けたまま、頭にこびり付くのだろうか。私は私の理想を全力でこの薄暗い現実から守り抜かなければならなかったのだ。 

 

あなたの夢は守られていますか?

 

 

 

迷いとか決断とか

自分は一人ベルトコンベアの上に居る。

いつからそうしているか覚えていない、誰かに言われているのかもしれないし好きで乗ったのかもしれない。とにかくベルトコンベアから下りることができない。できないと言うよりめんどくさいのだ。下りたら完全に行くべき方向がわからなくなってしまう。だから決まった方向に進むベルトコンベアはすごく楽ちんでいい。

私は胡坐をかいて座っている。ベルトコンベアは午前4時の森のように静かに回転している。始点は見えず、行く先の見えない、周りが霧に囲まれているけど、そんなに不安をそそる霧ではなかった。どちらかと言うと、子守歌のように緩やかで、羊水のような温かみがあり、温泉の湯気のようなものだった。私はベルトコンベアの上で寝ころびながら考えた。それはきっとどこかに行き着くはずだ。一つの方向に、自分の求めているものかどうかは確信できないが、そこに行き着けばそれを受け入れようと思っていた。

 

ベルトコンベアは音も立てずに回っている。ゆったりとした広さのあるベルトの上に居ながら自分は心地の良さすら感じていた。周りの風景は絶えず変化し、偶に猫までやってくる。春にはうららかな陽が差し、夏にはスイカ畑を通り、秋には銀杏の葉を集め、冬にはベルトの上にささめ雪が積もった。しかし自分の周りにはいつも薄い霧に包まれていた。霧はしつこくベルトコンベアに付きまとい、何かの生物の集合体のようでもあった。

 

ある寒い冬の早朝に、私が深い眠りから浅い眠りへ、そしてあやふやな目覚めに囲まれた間に、今まで自分の四面を囲んでいた霧が突如と煙のように消えていたのだ。視野の広まりに追いついていけなかったが、立ち上がり恐る恐る周りを見ると、自分はどうやらとてつもなく高い崖、城壁のようなものの上を移動していたことが分かった。は、慣れた方向は万里の長城のように遠く、壁の上に春の草原があって、夏のスイカ畑があって、秋の枯れ葉が積もり、冬の雪が残されていた。壁面には針葉樹が所々思わぬ方向に向いて生えており、森や林を成している。さらに壁の下を見ると…水のようなものが見えた気がした。というのも、水はひどく透明であり、そこに水の存在を気付かせないくらいの静かな水面があるからだ。自分でも良く晴れた晴天では辛うじて水面に映る青と、白くて細い雲が見えたが、荒れた日や霧が重くなると一気に崖の下が見えなくなるのだ。そうゆうときは、針葉樹がざわつき、風が吹き荒れて大体下を見る気にもなれないけれど。

行く先をよくよく見ると、今度は100メートル程先に霧がかかっていた。そこには一つの塔があり、それが隠れるか隠れないかのところに霧がかかっている。100メートルと言うのは、100メートル走で速くて15秒、歩いて3分程、ベルトの上で10分程だ。私は急に恐ろしくなった。今まで崖の上にいたなんて夢にも見なかったからだ。この先には何があるのか、もしかしたら崖の端が塔の先にあるかもしれないと思ったら、恐ろしくて身震いがした。私はベルトコンベアから下りようとしたが、体は金縛りのように固くベルトの外に踏み出すことができなかった。その感覚は昔、嫌で乗ったジェットコースタが発進したときの恐怖や、落とした茶碗が割れると気付いた瞬間のような、何度も経験してきた、一種の後戻りのできない絶望を全身で味わうものだった。…どうして10分で辿り着く先なのに、朝と夜がやってきて、この時間が永遠に続くような錯覚に堕ちるのだろうか。ベルトコンベアは間違いなく、スピードを落とさずに進んでいる。100メートル先も、間違いなくそこにある。塔は動かないし、霧は後に引かない。夢と目ざめは変わらずやってくるのに、どうして時間がますます輪ゴムのように、茹でられた麺のように伸びていくのだろう。

この地獄が速く終わってほしいと願えば願うほど、私には戦う時間を余儀なく残されることになった。誰がこんなことを仕込んだのだ?何一つ決断をしてないように見せかけて、ベルトの上に残ると決断した自分のせいだろうか?私には今から戦う自由があるし、戦わないことを選択する自由もある。しかしその自由は、選択する前より、自分自身が持ちうるものだったのだろうか?私にはどれだけの可能性が残されていて、どこまでの有限性を含んでいて、その程度は、いつ、どのようにして、誰に自由と定義されたものだったのだろうか。

私は自分の体と格闘し、何とかそこから一歩を踏み出そうとした。全身を大の字に伸ばし、どこまでベルトからずれる事ができるか試してみたりした。逆走を試みたり、周りに落ちてるもので、崖から落ちた時に使えそうな縄や枯れ木を探したりした。そういうときに大体壁の下の水面が酷く濁って、自分の一挙一動を映した。私は遠くに映る自分の影を見て、ひどく阿呆らしくなった。私はなにと戦っているのだろうか?国か、社会か?人の目か?それとも自分の頼りない自尊心か?敵はどこにいるのだろうか?そもそも、敵などいるのだろうか?静かに目を閉じると、小さい頃に遊んでいた水車の事をよく思い出した。水車はただそこに居て、水を汲み、周り、また水を汲む。川がそこにある限り、水車は回り続ける。私はひたすらその様子を眺めるのが好きだったのだ。

何もかも諦めた日は、偶に晴天が現れ、城壁にはツバメが巣を作っていたりした。こんな日がいつまでも続けばいいと思った。しかし夜になると再び恐怖が訪れ、私は眠れない夜に周りの音に耳を立て、敵の一挙一動に神経を巡らせていた。

 

そうしているうちに私は塔の下に来た。それはいきなりだった。気付いたときには何もかも終わっていて、私がしてきたことは全て何てことのなかったように、遠く向こうの壁の端に記憶がこびりついていて、私はそれを拾うのを忘れたようだ。ひどく混乱していた気はするが、細かい事はほとんど覚えていない。

塔は目近で見るとそれほど立派なものでもなかった。橋から見たタワーブリッジの半分くらいの高さで、上が円錐型になっている。城壁と同じくらいくすんだ色で、塔と言うよりも、丁度亀の甲羅のように、城壁の骨格が何らかの原因で上まで延び、塔の形を成した建物になっているだけだった。私は前にも何度か、このようないびつな建物の下を通過したことがある気がする。赤レンガのきれいな塔で、ドームの先端に旗が付いている城塞のようなものもあった。しかしそんな印象や記憶は今となって、あんまり大事ではないように思えた。

私の身が塔に近づいたとき、塔は私にこう言った

 

「よう、いらっしゃい。そして行ってらっしゃい。君は何かを選択したように見えるが、その決断は一つの過程に過ぎず、これからも迷うことになるだろう。健闘を祈る。」

 

塔は何ともない風に、歯切れ良くそう言った。もし人間だったら、きっととびっきりの営業スマイルを浮かべていただろう。そして今まで沢山の人間が、塔の下を通て来たのかもしれない。ヨーロッパのお姫様が住む立派な塔にせよ、みすぼらしい犬小屋のような塔にせよ、塔かどうかも分からない何か大きな壁が崩れた跡にせよ…私たちは皆、そこを通て来た。どの塔も変わらず、歯切れの良い発音で、いらっしゃい、行ってらっしゃい、ご健闘を祈りますと言う。そしてこれから先、何度もそれらと戦わなければいけない…塔や、城壁と、ベルトコンベアと。水面上の自分も、水面に映る影も。

 

塔の先には霧がなかった。そこは断崖でもなかった。その先に城壁はひたすら続いていて、また新たな水面上の世界になっていた。

 

 

 

▼迷う主人公といえばこれ。

三四郎

三四郎