文鳥とピアノ

少しだけお付き合いください

左脳の傲慢

  全知の存在がいるとしたら、きっと人間のすべてのややこしい感情に論理的な説明をつけることができただろう。何かを嫌だと思う気持ち、好きだと思う気持ち、なんとなく死にたいと思うとき、生きなければと奮起するとき。しかしそれを、全ての感情を筋の通った論理で説明しようとすることは至難の業だと思うし、それを可能だと盲信することは傲慢な事ではなかろうか。

  人間は言葉で考える生き物だと言われている。事実かどうかを確かめようとすれば考える動作を行うことになり、凡人には確かめる術がない。しかし多かれ少なかれの、マイノリティーだと断言できる人間が存在するという事を、本人も含めて知っている人もいるだろう。イメージや映像や、言葉とは程遠い曖昧な何かで思考する人が。

  私たち人間が知性として持っている情報は実に少なく、感じている情報は自らの思うよりも自分の理性を支配している。つまり、人間はコンピューターではない、生き物であり訳もなく泣いたり笑ったり、バグでも起きたかのように過去の記憶がフラッシュバックしたり、ある程度は遺伝子に左右されながらも理屈抜きで何かを好きになる。これらすべての感情は愛おしく不思議だから、バラバラに分解して仕組みを理解しようとし、それながら自らの脳が不器用であることを認めることができずわかったようなふりをしてすべてのロマンに理屈をこじつけようとするのは見苦しいし、自分の理性を盲信してすべてを理屈で解明できると考えるのは傲慢だ。私は、こんなことはできないからやめろと言っているのではない、夢がないからやるなと言っているのでもない、きっと非常に賢い脳科学者でもいればある程度は説明のつくことだし、冷静的に物事を判断することは重要である。ただ人間という生き物の不思議さ、バランスの取れない天秤のようなその不器用さ、すべての感受性のすばらしさを見過ごしている人、愛し損ねている人の多さに遺憾と悔しさを感じているのだ。

  それは私が、人間という種族を心から愛おしいと思っているからかもしれない。