文鳥とピアノ

少しだけお付き合いください

読書案内〜『行人』夏目漱石〜

読んだのは新潮文庫のもの。後期三部作の二作目であるが『彼岸過迄』は読んでいない(高校時手に取ったが読めていない)。

 

行人 (新潮文庫)

行人 (新潮文庫)

 

 

 

多くの読者はまずあらすじに驚かれるだろう。新潮文庫のあらすじはこう(以下引用)

 弟よ、私の妻と一晩よそで泊まってきてくれないか?学問だけを生きがいとしている一郎は、妻に理解されず、親族からも敬遠されている。我を棄てることができず孤独に苦しむ彼は、愛する妻が弟の二郎に惚れているのではと疑い弟に自分の妻と一晩よそで泊まってくれとまで頼むが...。

 

このあらすじははっきり言って、よくない。確かにそこは作品のハイライトでもあり兄の性格をよく表した事件であるが、物語の十分の一にも至らない、客の目を引くためだけに書かれたあらすじである(たとえそれがあらすじの機能であり自分がそれのために釣られたのも事実だとしても)。

 

それに比べて角川のあらすじはインパクトは減るが、あらすじらしいです。(以下引用)

自我にとじこもる一郎の懐疑と孤独は、近代的個人間の運命そのものの姿である。「行人」の悲劇は単なる一夫婦の悲劇ではない。人間そのものの心の深淵に、その宿命的な根を求めなければならない性質の悲劇だ。「死ぬか、気が違うか、宗教に入るか」主人公の苦悶は、漱石自身の苦しみでもあった。大正元年作。

 

自分も今回の感想文を書くに至って沢山のブログで人の感想を読み漁っりました。他人の意見は新しい視点と考え方を与えてくれるので自分の感想の確認も兼ねて必ず読んでいます。私はまだ読書歴が浅く夏目は何を読んでも「すこい」とか「さすが」しか出てこないので批判的な感想はとてもためになる、何より夏目はこのような感想というものが書きにくい。支離滅裂なものになるがいつものこととして大目に見てほしい。

 

この物語の語り手は二郎(名字は長野)で、主人公はその兄の一郎。一郎は学問に励んでばかり肝心の人間としての生き方を学んでこなかったと言います。妻とどう接すればいいか分からずいつも冷淡のため愛想を尽かれ、家族からは腫れもの扱いされ「こんな子に育てた覚えはない」と背後で家族会議になる。兄嫁は兄をよく扱えてるように見えるが実は全く心が通じてなく最後に意味もなく頭を殴られる(またはビンタされたともとれる)。家でただ一人兄と少し会話ができた弟も結局喧嘩して家を出る。最後の章ではどんな人間が知識人の一郎と付き合えるか、作者なりの解答がHさんという人物として現れる。兄の思惑もよくある長い手紙という形式で語られる。読み進めるとどうしても知識人、学者、コミュ障な兄は夏目本人の姿に重なっていってしまうが、他のレビューやコメントを読むと、一郎は全ての近現代の知識人の姿という考え方もあります。   

 

ぶっちゃけ長いしテーマが幾つもあって重なって交わって分かりにくい。(それを書けることが夏目の凄い所と私は思っているが…)『三四郎』『それから』はまだテーマがまとまっていて議題が明瞭だった気がするが、オムライスで言うと『行人』は「夫婦とは何か」がチキンライスであり、「兄という人間について」が卵になって下のライスを隠し、ケチャップが「宗教」で量は少ないくせに目立ちます。『こころ』に似ているのがHさんの長い手紙が心持ち全体の三分の一を占めている点(実際はもっと短い)。その手紙がなぜ大事かというとそこには夏目の言いたいことのほとんどが詰まっていると思われ、最早それだけでも良さそうと思うくらいだったからです。当然それだけではおおよそケチャップを吸うだけになるので面白くないが。

 

逆に、手紙は夏目の自己弁護であり兄という人物を美化する蛇足という意見もありますが、自己弁護で美化しているのはその通りでした。コミュ障な兄二郎は「他人(私)に何か求める以前に自分(家族)が何か与えてくれたのか考えろ」と家族を批判し、子供みたいにしゃがんでカニを観察したり自然を愛する兄の姿を描き「ほらあんな変人でもこんなにかわいい所があるんだよ」とフィルターをかけ、今まで兄が家族にした仕打ちをかき消すかのように兄の苦悶と可哀そうな処を延々と、兄から「欲がない自分を幸せにできる人間」認定されたHさんはこんな兄も僕だけが知ってるんだよと滔々と自慢する。そのHさんが妙な人間で、一見兄と正反対な、何も考えてない人間に見えるが、その実兄の好き嫌いが読めて、バカだと自称しているが欲しいときに欲しい言葉を掛けるし、『自分がどうにか絶対になって苦しむのをやめたい』など意味不明で難解な議論を、『そんな難しいことを考えずにお前が自然とカニに夢中になっていたあの瞬間は絶対だ』と分かってない様で的を得た意見を兄に一蹴し知識人の兄をさえ黙らせる。こんな賢くて欲がない、ひねくれものの心がわかる理想の王子様みたいな人間はいねーよ。手紙は蛇足と言う気持ちも分からなくもないが、自分は手紙の部分が一番面白く感じました。ちなみに二番目に面白かったのは二郎と兄嫁が一緒に泊まって兄嫁が暗闇の中弟の前で化粧したり着替えたりするシーンです。

 

『それから』もそうですが夏目は自然に対する思入れが強い。山や海の方もそうですが、「人間は自然に逆らえない」「自然に生きるのが一番」というメッセージが強く伝わってきます。そのような心も、生態学専攻の私が夏目漱石の本に惹かれる理由の一つになるだろう。