文鳥とピアノ

少しだけお付き合いください

夢と現実の境目はどこか

明晰夢をよく見ていた。最近はあまりないが、そういえば学生時代に夢の中で夢だと気付くことは多かった。夢の中で飛ぶことは非常に面白かった。夢の中では、自分は何でもできるのだ。飛べると思えば飛ぶことだってできる。大事なのはイメージすること、想像することである。

 

飛ぶときはまず、体の浮遊感を想像する。全身が軽くなって、まず地面から5センチくらい離れるところを想像する。体重がなくなり、月面に居るようなイメージだ。そうすると体が自然と浮かび上がり、そこから空を飛ぶのは簡単だ。地面が遠くなるところを想像するか、空に近づくところを想像する。そうすると驚くほど一気に体が空に飛ぶのだ。勿論空気が薄いことは頭にないので全く気にならない。無意識的に空気抵抗や酸欠を気にしていたら随分辛い症状が起こるかもしれないが。その頃自分は現実で空に飛べない事に対し非常に飽き飽きとしていたのを覚えている。駅の階段や歩道橋、窓際などで何度も体が浮くところを想像していたのだ。勿論現実では空を飛べないし、大気圏から日本列島を眺めることはできないし、飛行機なしで東京から京都や広島まで飛び街中をふらつくことはできない。思えば暇つぶしにグーグルアースで色んな場所を調べて、その時の記憶が無意識に脳裏に焼き付いて夢に出たのもあるかもしれない。

 

もう一つ、明晰夢でハマっていたというか、面白半分でひたすら飛び降りしていた時期もある。高い建物の上やマンホールの側から、ジェットコースタからなど…わざわざ高い所に行って飛び降りる作業を繰り返していた頃がある。夢の中で飛び降りると、大体最中に記憶が途切れて夢が中断されるのだ。それは自分が自分の体が地面に打ち付けられるところを想像したくないのか、或いは経験がないから想像できないのかが原因かもしれない。勿論そういうことは夢だと分かっていないとできない事だ。さらに言えば、精神状態が良くなく夢と現実を混同した状態でやるには非常に危険だと思われる。

 

さて、ここで一つ疑問なのだが、夢を夢たらしめるものは何だろうか?

 

記憶と夢は非常に近い位置にあると言える。自分に心理学的知見は毛頭も持っていないが、「夢はつまり思い出の後先」なんて粋なことを歌っていた井上陽水に敬意を示さずにはいられない。では、夢と現実の境目はどこにあるのだろうか?

夢と現実は全く背反したものではないのだ。寧ろ一方がもう片方を内包し、それらはマトリョーシカのようにお互いを繰り返し飲み込んでいるように思える。見た夢そのものは現実に起きたことだし、現実に起きた事、起きるかもしれない事が夢として現れることもある。さらにスピリチュアル(私はこの単語があんまり好きではないのだが)なことを言えば、人生そのものが夢だと考える思想は宗教や哲学、物理学などに良く表れる。仮想現実説と言うものなどですね。現実の定義、夢の定義を一度整理しなおさなくてはいけないかもしれない。

 

フロイトの夢判断、面白いです。

 

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