文鳥とピアノ

少しだけお付き合いください

敏感肌

私は今ベッドの上に仰向けになっている。頭の下にはザラザラした髪の感触とひんやりした枕カバーと頭の重みのせいで凹んだ枕。

布団が体の上に被さっている。空気を含んだ厚い羽根布団だ。さらに布団の上には、脱いだジャージとズボンの重みが微かに感じられる。

手は腹の上に重ねてある。呼吸に伴う脂肪の浮き沈みを手で少し抑えながら、腹巻の毛玉と繊維の感触を確かめている。私は腹巻をしていて、腹巻の下には肌着を着ている。下はトランクスと短パンだから、冬にしては寒過ぎる格好だ。でも1ミリでも動けば身体中から熱が空気中に逃げてしまう気がして、じっとしている。

背中で肌着の盛り上がった縫い目と柔らかい生地が皮膚に押し付けられる。髪が何本か首周りの皮膚に突き刺さるのを感じている。腕や脚の周りにはシーツの繊維か体毛がうごめきまるでダニが何匹も這い回っているようだ。足で動き回っては手の甲でも応えるようにコソコソと毛穴のいとつからもうひとつへと移動したり、太ももと短パンの間で跳ね上がったりしている。顔で静かに冷たい空気を受け止めながら、身体中は大忙しで全く落ち着きがない。ついに足の裏にチクリとチクリとしたこそばゆさが起こり、ひとつ寝返りをうった。今まで保ってきた等身大の温もりは、一瞬で抜け落ち、肩からふくらはぎまで神経が波を打ちながらビリビリと震えた。

明日シーツを洗ってみよう。布団カバーも。そう思いながら、また触覚との戦いが始まった。

 

2021.5月追記

ニトリの冷感布団カバーに変えたら肌がゴワゴワしなくなった。

冬も愛用してます。

 

手をはなそう

男は冬があんまり好きじゃない。

枯葉の匂い、透きとおる風、空と木のコントラストの全てがほかの季節と同じくらい趣深いけれど、なんとなく訳のない気だるさに見舞われることが多かった。朝起きると鈍い光がカーテンの隙間から漏れ出て、重い布団が体に負い被り、手や頭を少し動かしてみると、一日の終わりのような始まりを迎える。

 

大学を卒業し、やっとの思いで希望の職種に就くことが出来た。不眠の街をふらふら歩きながら空いたビール缶を振らし、プログラミングされたように見知らぬ夜道を辿って帰る毎日だ。夢とうつつがはっきりしないままベッドに潜り込み、何度も死んでは生き返る。

 

鉛のような体をベッドからずらし、頼りない両足を床に着けた。クローゼットの引き出しから黒いトレーナーを引っ張り出し、そのままパジャマの上に被せる。朝飯を食べるのも億劫なので、湯沸かし器を途中で止めたぬるま湯を胃に流し込む。暑くも冷めてもいない液体が身体中に広がり、腹が少し重くなる気がした。光の射す方を一瞥し半開きのカーテンを閉めるか開くか迷ったが、そのままにしておいた。6畳の部屋は明るくも暗くもなく、青色がかったねずみ色に見えた。

 

近くから中学校の予鈴が聞こえた。時刻は9時ちょうどで、もう会社に間に合う時間ではない。テレビを付けてみたが、近頃同じニュースばかり流れている。どこの誰かが死んで、偉い人が失脚して、春一番がどうのこうの。でもそんなことも、やがて全ての人間に忘れられるだろう。

男はテレビを消し、再びベッドに倒れ込んだ。

 

手をつなごう

大学はそんなに嫌いではない。

一年生の頃は好奇心旺盛で色んな授業を取っていたし、二年生には単位のほとんどすべてを取り終え、今や残るは卒論のみ。講義に対して興味が尽きることはなく、良き理解者でもある友達に恵まれ、金銭には困らない。

 

だが私は、大学を良く休むことになった。

取っている講義の数が激減したことや、一人で授業を受けるようになったこと、空気が合わない研究室、青年期特有の自意識の寄せ集めのような部室、引き籠り気味な親友。それらすべてはきっかけに過ぎない。本当の理由は心の奥底に埋められていて、未だ萌芽しない、するかもわからないが、したら鉢ごと崩れ落ちそうな危うさを抱えている。

 

しかし社会人へのカウントダウンは刻々とそれを促し、無情な時間の流れが私を内なる方へと追い詰めるのを感じた。心の中の種は戸惑いと反感とかつてない生き難さを誘い、朝を迎える事すらままならない。世間にそれを、モラトリアムの一言で片づけられるのは、あまりにも悔しい。

 

だから、全部天気のせいにしよう。夜の海を見つめすぎるのは、星がきれいだから。外に出たくないのは、北風が冷たいから。目の前のものが良く見えないのは、陽が眩しいから。

 

うまく生きられないのは、空が灰色だから

左脳の傲慢

  全知の存在がいるとしたら、きっと人間のすべてのややこしい感情に論理的な説明をつけることができただろう。何かを嫌だと思う気持ち、好きだと思う気持ち、なんとなく死にたいと思うとき、生きなければと奮起するとき。しかしそれを、全ての感情を筋の通った論理で説明しようとすることは至難の業だと思うし、それを可能だと盲信することは傲慢な事ではなかろうか。

  人間は言葉で考える生き物だと言われている。事実かどうかを確かめようとすれば考える動作を行うことになり、凡人には確かめる術がない。しかし多かれ少なかれの、マイノリティーだと断言できる人間が存在するという事を、本人も含めて知っている人もいるだろう。イメージや映像や、言葉とは程遠い曖昧な何かで思考する人が。

  私たち人間が知性として持っている情報は実に少なく、感じている情報は自らの思うよりも自分の理性を支配している。つまり、人間はコンピューターではない、生き物であり訳もなく泣いたり笑ったり、バグでも起きたかのように過去の記憶がフラッシュバックしたり、ある程度は遺伝子に左右されながらも理屈抜きで何かを好きになる。これらすべての感情は愛おしく不思議だから、バラバラに分解して仕組みを理解しようとし、それながら自らの脳が不器用であることを認めることができずわかったようなふりをしてすべてのロマンに理屈をこじつけようとするのは見苦しいし、自分の理性を盲信してすべてを理屈で解明できると考えるのは傲慢だ。私は、こんなことはできないからやめろと言っているのではない、夢がないからやるなと言っているのでもない、きっと非常に賢い脳科学者でもいればある程度は説明のつくことだし、冷静的に物事を判断することは重要である。ただ人間という生き物の不思議さ、バランスの取れない天秤のようなその不器用さ、すべての感受性のすばらしさを見過ごしている人、愛し損ねている人の多さに遺憾と悔しさを感じているのだ。

  それは私が、人間という種族を心から愛おしいと思っているからかもしれない。

季節の行方

自分らしく生きることは難しい。親が存命している間はできるだけ失望させたくないのは自分の性だし、就活のシビアさを体現してくれない狂言にも付き合わなくてはならない。いよいよ親の忠告により淡く幸せな大学生活から目覚めると周りはとっくに次へと動き出していた。

 

そもそも大学を就活予備校とでも考える人がいる。偏見に過ぎないが世の中の商学部がそうである。彼らは実用性だけのために勉強し、コスパとステータスの中に生きている。大学に来る必要があるか、さっさとビジネススクールにでも通えばいいのにと思う。確かに経営学も経済学も面白いが、応用面のベクトルが強すぎて学問の本質からはかけ離れ過ぎていないか。ええ本当に、ただの悪口になってしまいそうだが、ただ知りたい欲求を満たすためだけに生きることが学問だと思っていた。そこには何の目的も存在しない、虚栄心や金は勿論、社会奉仕の心さえも見えない、それ程純粋な求知心という化け物のため、対象の暗闇のためだけに存在する飽くことのない探求、ただそれだけのことなのに。

 

いつの間にか夏も終わり、研究者にもなれない、会社員にもなれない、ひたすら自身の能力の足らなさが目につき、これでもかと精進しなければならないはずなのに一つまた一つの季節が過ぎていくのを見送ることしかできない。体の後ろから押し寄せる轟くほどの時間の洪水を風で感じながらも足が硬直して前に進めない。前に進むことを待ってもくれない。このような時に気の知れた仲間の一人や二人でもいればよかったのにと思ったりしたが、時すでに遅し。

 

ここまで弱音を吐き続けても、結局すべての原因は自分にあって、マイペースに生きることができるかを決めるのも自分であり、そもそも理想に届かなかったとしてもこれまでの人生を歩んできたのは他でもない自分なので、自分らしさというのは現実逃避のための、理想の自分の代名詞でしかない。絵も描かなくなった。積んだ本は寝床の高さを超えた。遠野には行けてない。やりたいことをやらないから自分になれないのに、それ程簡単なのに何ぞ難しき事哉。

 

 


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世に生きとし生けるものならば

金が好きである。通帳に刻む数字を見るのが好きだ。金の流れを考えるのが好きだ。金で人と人の間を繋げるのが好きだ。金があれば形があるものも形がないものも大方手に入る。金は信用なり。

 

夏目も好きである。一日中畳の部屋に寝転がり三四郎が門を出るまで、茶枕を抱きかかえ寝ては起き読んでは寝る暮らしがしたい。考えることは罪深き女と阿呆な男のことばかり。偶に気が向いたら絵でも描いて質素な食事で60そこそこまで生きて死ぬ。住むところはが周りの山がきれいな平屋。

 

しかしずっと一汁三菜の生活をしていると、たまに無性にフォアグラが食べたくなるに違いない。絵を描いてると、ある時には額縁が欲しくなるだろう。そして街に出るとトレンドのズボンを買いたくなるだろう。期せずに出世したかつての友人に遭遇し、今までの人生を長い林道を歩くように振り返り、似たような刺激のない光景に落胆したりしないだろうか。いざ店に入ると、喉から手が出るほど欲しいズボンが懐の届かない場所にあったりしないだろうか。のこのこと入ったお店のフォアグラの固み、豚のレバーの味がした一日で終わると同時に、きっと自分はこう考える、大人しく良き社会の歯車になっていればたいそう欲を満たせたろうにと。夏目は己の中に潜む強欲な化け物に金を与えてくれる力はない。一旦山に登ると下るのは困難だ。

 

晴れて歯車の一つになった自分は黒いペンキを身に纏い日々社会の奴隷として生きる事を誇りに思いそこそこの欲を持ちつつせかせかと生きるところが、それも短くある時また山から下りてきた好き勝手に生きるかつての友人に遭遇し、その晴れ晴れとした煩悩と無縁な顔に気づかされるだろう。紙にインクで打たれた増える数字がただの催眠術で自分はその中にどっぷりハマっており、歯車からは自らのための実りの一つや生えたことがなかった。時計を腕に嵌めて文学を辞め、筆を捨て、世に寄生して生きてきた自分の体はもはや自分のものではなく、社会というプログラムに飲まれていた。遥か高い所から未知の力が信号を出すと、ロボットのように体が勝手に動く。報酬に数字が増える。また動く。金は好きだがそれ程自分が欲しかったものかはと、夏目に問う。しかしフォアグラの味を噛み締めた者はワラビでは満足できない。

 

俗に生きれば窮屈だ。雅に身を任しても僧でない限り欲が出る。二十歳の自分は人生の岐路に立たされている。失敗はしたくないが失敗を乗り越えずに成功へはたどり着けない。何度も失敗すればいいと皆は口では言うものの人間は誰も自分の砂時計を見ることはできない。夏目と金と歯車は違う座標系上にある。とにかく世の中は生きにくい。

 

草枕

草枕

 

 

夏という季節

夏は非日常的だ。

昔から夏は特別だった。暑苦しいのは好きじゃなかったけど、夏が来ると夏休みと誕生日が近い。プール開きに夏期講習、夏祭り、花火、夏の甲子園。青春の代名詞であり全てのハレと娯楽の集い場所で、嫌いな学校から遠ざかれるし、好きな事を好きなだけする事が許される。

 

20代になっても、夏は特別な季節。ふと往事を思い出したり、新しい事を初めてみたり、バーゲンと飲みで羽目を外したり、それは夏だから許される。年中そんな事をしてたら締りがなくて駄目だ。自分の中では夏ならなんでも許される。1日中雲を眺めてるのも山手線を乗り回すのも。過去にしがみつくのも。

 

今年の夏はとりあえず遠くの東北の山に行ってみたい。海より断然山が好きだ。山にはやまびこがいるけど海にはいない。泳げないし。

 

まあ、つまりは夏は好きなんだ。