生々流転

少しだけお付き合いください

青年アスペ2

一人の青年がビルに入っていった。青年は黒いスーツを着ており、鋭い三白眼に、伸びた前髪は眉毛にかかるくらい。顔立ちと相まってスーツは喪服にも見える。青年は入り口で待機している受付と思しき女性と暫く会話した後、ビルの奥へと速足で歩いて行った。

青年がエレベーターで42階まで登り、長い廊下を渡り切ると、右側の奥から三番目の部屋を数え、ドアをノックした。「お入りください」と低いぼやけた声が部屋の中から聞こえ、青年はドアを開けた。

 

長めのテーブルに中年の男が腰を掛けている。男の背後のガラス張りの窓からはくすんだ都会の空と街並みが一望できた。街の道路に少し目を遣り、青年は壁際のパイプ椅子に座った。

 

川口歩です、よろしくお願いします。

自己紹介なんて話せることあんまりないのですが…ええと、埼玉県生まれです。私立の中高一貫に通って、実家の近くの大学を卒業しました。卒業後は工場のバイトをやりながら毎日油絵を描いてました。

…いえ、別に絵描きなんて目指してません。大学で油絵描いてたんで、その続きみたいなもんです…卒業してからも描きたいと思っていたから…周りの友達は皆仕事探してましたけど…

いや、仕事を探しながら絵を描くなんて無理です。左手で飯食って右手で字を書くみたいなもんすよ…まあできる人にはできるでしょうけど、僕には無理ですね。

仕事を探し始めたのは金が必要になったからです。今まで住んでいた実家から追い出されて…ええ、両親はもうカンカンですよ。工場で働いた分の給料では生活費が足りないって。そんなの嘘に決まってるんです、彼らは目的のためなら手段は選ばない、僕をまともな仕事に就かせるためならどんな嘘だって付きます。工場の仕事はまともには入らないらしいですね…ええ、正社員ってやつじゃないと駄目とか。でも僕彼らの通帳をこっそり見たんですけど、二人合わせて5千万は貯まってました。それに田舎に持ち家だって隠してあるんです、バレバレですけどね。金持ちが知られたらたかれるって警戒してるんです。子供からも、周りのと人からも。

だから完全に仕方なくですね。僕はもう一生家に引きこもって絵を描きながら一生終わる気でいましたけど。なかなかそうはいかないですね。絵を描くにしてもお金が必要なんです。どうしようもない。

だからといって働き過ぎて絵を描く時間が無くなったら本末転倒だから、こちらとしては心外なんです。絵を描いて暮らせて行ける分だけの金があれば十分ですから。そうですね、生活保護は親のメンツが潰れるからダメですね、口に出すだけで包丁で刺されますよきっと、はは。

働いてるうちに仕事を好きになる可能性は、ほぼないですね。僕にはもう絵しかないんで、それは生まれた時から決まってたんです。僕も10歳の時からなんとなく、こうなるだろうってわかってました。絵を描いてる以外の時間は、死んでいるんです。

画家の道はあり得なかったですね。そこそこ頭が良かったから、父親は僕が商社マンか医者になるって確信していましたね。ほんとにあの人達の頭の中には金しかないんですよ。実際商社の仕事を聞かれても何一つ答えられないと思います、失笑もんです。あんな家に生まれた僕としてできる事は、精々彼らがヒステリーを起こさないようになるべくことを穏便に済ませることだったんです。言われた成績を取り、言われた学校に通い、言われた通りにしてきました。反抗期なんてなかったですよ。まあ高校や大学なんてどこに入っても絵は描けますし、特に気にしてなかったんですが。

それが、大学卒業後にやっとボロが出てしまって。今までは頭が良いだけで上手くやってこれたけど、これからはそうは進まない。風が止んだ後の模型飛行機みたいですね。なんかみんないつの間にかエンジンついてるのに、自分だけ付け忘れていたみたいです。ほんと、なにをどうしたらエンジンが付くんですかね。まあ僕からしてみたら、そのエンジンが本当にその人達が作ったもんかは微妙ですけど。きっと知らん間に親に付けてもらったり、周りの人から借りたり、そういう自分で作ったもんだと勘違いしてるやつがごまんといるはずです。まあそれでも、偉いと思うんですけどね。自分はどうしても、頭に絵の事がこびりついて、ダメみたいです。

そうです、それで事務の仕事なら自分にもできるかなって。デザインの知識はないですけど…やれって言われたら、やりますが。

こちら側から質問ですか?…いえ、ほとんどないですね。必要な情報は全部会社のページに書いてありますから。…働くイメージって言われましても…実際働いてみないと分からないじゃないですか?あるいは社員さんの一日の作業を具体的に詳しく教えていただけたら助かるんですが...毎日の業務が変わるのですね、それは仕方がないです。

ええ、こちらこそありがとうございました。あんまり的を得た答えを言えなくて申し訳ございません。なおしては、いるつもりですが...こんな僕でも社会人になれるんですかね?