文鳥とピアノ

少しだけお付き合いください

現実逃避について

現実逃避があるのなら、理想からの逃避もきっとありますよね。

 

小さい頃の夢を諦めたり、結婚や仕事で色んな事を妥協したり、辛いことに耐えるのも現実を受け入れているように見えるけれどもそれは理想を諦めたことにもなりますよね。

 

現実を受け入れなければいけない、折り合いを付けなければいけない、現実から逃げるのは弱い人間がすること。人間は現実に生きていて、そのように脳と精神が世界に適応してきた。現実から逃げて夢ばかり見る人は大人になれない社会不適合者で、弱肉強食の世界では地位と権力とお金を持つ現実に強い人間が勝つ。そう思うのも仕方のない事です。

 

しかし実際はそれほど簡単ではないはずですよね。成功者の中には、少なからず辛い現実をものともしない程に夢ばかり追いかけていた人間だっている。実際そのような努力なくして今の彼らはいません。

 

つまるところ、「現実」はそれぞれの人間にとって意味合いが異なってくるわけです。最近流れてきた話で、高校生が学校を中退し漫画家を目指す事に、プロの方からはやはり反対意見が多い。それは彼女(恐らく女の子だったはず)にとっての現実はやはり高校生活であると、良識ある大人はそう考えるからだ。しかし本当のところはよくわからないから、一度本人に聞いてみるしかないだろう。

「あなたには本当にマンガしかなく、物質的な生活に居る友人や家族を投げ出してまでその世界に取り組める自信はありますか?これからマンガより魅力的な現実が高校生活の先に現れるかもしれないが、それでも漫画家を目指しますか?」などとね。

 

彼女はこれから先きっと苦労するでしょう。特に女の子は大人になるにつれて一層「現実的」になるので、いつまでもネバーランドの住人でいることは難しい。それは生物的に、遺伝子の中にあらかじめプログラミングされている数値で、環境によって多少変わってしまうかもしれないが、三つ子の魂百までという諺に真実に近い正しさを感じずにはいられない。君は何歳になって彼氏が欲しくなって、どんな教科が好きになって、音楽と美術のどちらが得意で、理不尽でつまらない授業に対しどう思うかといったことは予め決められているのではないだろうか。それとも運命論なんて胡散臭いと思いますか。

 

ひとりひとりにとっての「現実」も、きっと最初からそれぞれの心の中にあるはずです。ここで言う「現実」は、ある種の「真実」に近いものだと思ってください。それがある人間にとっては安定した生活を手に入れることで、ある人間にとっては映画の世界の役者で居続けることで、ある人間にとっては自由な旅人でいる事です。お互いの現実は違ってるように見えるけど、よく見るとそれは全部同じことなのです。生き方がどんなに違っていても、生きてることに変わりはないからです。だから人生を旅に例えたり、劇場と例えたり、戦争と例える人もいるのでしょう。

 

自分は辛い時には人生を夢だと考えるようにしています。(怪しい宗教ではないですよ)そう考えると、終わりも見えない苦しさや現実の厳しさなどから一時的に逃れるようになります。すべての夢には終わりがあるように、すべての苦しみにも終わりがあるのです、勿論幸せにもですがそれは考えないようにしたいところだ。そして辛いことが続くと、寧ろ「夢」の方が現実味を帯びるようになってくるのです。小説や漫画、映画や旅、音楽を聴くとき眠るとき…今まで夢だと区別していたものが、現実に切り替わってしまうのです。今まで区別なんてしなければ、こう簡単に変な思考にハマることもなかったのだが…そもそも区別しないのが普通だったのでしょうか?中高の頃に抑圧されてきた自由が、世界が、一気に自分を侵食してしまったような気もします。

 

まとめると、あんまり自分の自然な意思を抑えてまで苦労して何かに打ち込むことは、目的を達成できる代わりに「なにか」から報いを受けてしまうのだと思う。心を殺すと、いつか心からの復讐を受けるでしょう。「現実逃避」なんて単語はさっさと死語になって、それより「現実認識」とか「理想調整」みたいなことを大事にした方がいいのではなかろうか。

 

それから

それから