生々流転

少しだけお付き合いください

七つの子

「かーらーすー、なぜなくのー」と女の子は大きい声で歌っていた。彼女の隣には母親がいて、二人は公園の林道を歩いている。平日の公園はかなり空いていて、少女の歌声は木々の間で微かに木霊した。道の向かい側で通りかかる人は少なからず興味を持って、彼女たちのことを控えめに窺ったりした。彼女も彼女の母親も、まるで一旦口から出た声は自分達とちっとも関係ないという風に、少女は歌うことに、母親は歩くことに夢中だった。

「からすのかってでしょー」

母親は今まで娘がそばにいる事さえ忘れていたみたいだったが、やっと自分の娘に目を向けた。母親は初夏の夏に良く似合う、淡い黄緑の半袖ブラウスに紺のスカートを履いていた。二の腕はすっきりしていて、髪の毛をハーフアップできちんとまとめていた。年の割には若く見える装束だったが、化粧は薄く目じりの皺が中年の女性らしさを作り上げた。右手にグレーの小さいカバンを持ち、左手は日傘を差していた。日傘の陰が二人の体を包んだ。母親は低めの白いパンプスを、娘は黒い革靴を履いている。白いパンプスはゆっくり、黒い革靴は速めのリズムで歩いている。

「あら、そんな歌詞どこで覚えたの?」母親は娘に話しかけた。背筋は今まで通りまっすぐに、歩調を落とすことなく、顔だけを少し少女の方に向けた。顔には微かにだけ感じられる、春の陽のようなほほ笑みを浮かべていた。

「かーわいーい、ななーこちゃんが、うたってたーのーよー」

「そうなのね。あの子はまだ、ピアノのお稽古を嫌がっているのかしら?」

「ざんねんながら、そうみたいだよ、マダム」

「マダムというのは、もっとえらいお母さんのことを言うのよ」

「お母さんはえらくないの?」

「お母さんもななこちゃんもえらいね。でももっとえらい人がいるのよ」

「ふーん」女の子は興味なさげにうなずいた。時折ほどけそうでほどけないワンピースのリボンを気にしながら、全く別のことを考えているようだ。

「ななこちゃん、ピアノのレッスンよりも、お絵かきがしたいって言ってたよー」

「知ってるわ」

「なんでレッスンに行かなくちゃ行けないのかなーって。ピアノのがくふを見てると、あたまの中でカエルさんがばくはつするって」

「カエルさんにもう少し我慢してくださいって、お願いできないかしら」

「カエルさんはもうこりごりだって。こりごりのゴリゴリだって。こんどつまんないバッハさんに会ったらなかまを呼んで、バッハさんの巻き毛をめちゃめちゃにしてやるって」

「それはバッハさんも怒るわね」

「それでね、バッハさんのがくふのとちゅうで、オペラかしゅのせんせーのね、嫌いな猫ふんじゃったをひき始めるの。そしたらおへやのまどから猫がたーくさんとんできて、ピアノの上でおおあばれー、わー!」

少女は両手は一斉に上に挙げて、拍子でワンピースのリボンが遂にほどけて、短く切り揃えられた髪がスカートの裾のように一瞬舞い上がってからすぐに元通りに収まった。

「先生、きっとすごく困っちゃうでしょうね」

母親は相変わらず前をまっすぐ見詰めて歩いている。右腕の腕時計をチェックし、少しだけ歩調が速くなった。

「もう時間がないわ、速く歩いて」

「ねー、ピアノのレッスンいかないとダメ?」

「駄目よ、何度も言ってるでしょ。お友達もみんな頑張っているじゃない。もう少し我慢なさい」

「わたしあのきょうしつ好きじゃない。あおちゃんはピアノなんてやらなくてもぜんぜんへいきだって」

「好きとか嫌いとかの問題じゃないの。やらなきゃダメなものはやらなきゃダーメ。インコのあおちゃんはお友達に入りません」

「あおちゃんはお友達だもん。この前ねー」

「分かったからさっさと歩きなさい。先生が待ってるわ」

母親はいつも優しいけど、時々このように不機嫌になることが少女を戸惑わせた。まるでいつもの母親がどこかの森のカラスに攫われて、母親の体に怖いカラスの化け物が棲みついたようだ。

「来月引っ越すから、それまでにピアノのレッスンは続けるのよ」

少女はだんまりして口を聞かなくなった。彼女は彼女のインコのことを考えていた。インコは彼女の7歳の誕生日に母親に籠と一緒に与えられたものだった。非常に薄い黄緑色をしていて、丁度母親がその日に着ているブラウスと同じ色だ。

インコの名前は彼女が付けた。きれいな黄緑色を表す名前を調べてみたけど、なぜかあおが一番ぴったり似合うと彼女は思った。あるいはその色は、見る人によっては青だと感じるかもしれない。彼女も名前を呼んでいるうちに、本当に青色に見えてくることがときどきあった。

彼女にはインコがいて、整理整頓された六畳くらいの部屋には使い切れない量の色鉛筆とイルカ図鑑がある。部屋の窓からは大きな川、清潔な町、遠くに見える高架橋と定時に通る赤い電車、地平線の向こうの名も知れない山々などが見えた。そこは間違いもなく彼女の世界であり、世界は彼女のためのものだった。

彼女はまた引っ越しの事を考えた。それは引っ越しを言い渡された日から、何度も考えたことだった。なんで引っ越さなきゃいけないのだろう?きっとそこにはまた「おとなのじじょう」が絡んでいるのだ。全く「オトナノジジョウ」と言うのはいつも彼女の世界を混乱させる。今度は世界をはんぶん奪い去ろうとしていた。彼女がダンコキョヒしても、「オトナノジジョウ」に勝つことはなかった。嫌いな給食のメニューやきつい革靴、社会の勉強など、肝心なときは全く歯が立たなかった、歯医者も含めて。

彼女は引っ越しの日のことを想像した。彼女の部屋との別れなら、良く晴れた朝がいいと思った。できれば桜がまだ咲いていた春が良かったのだが、そこまでは無理強いしないことにした。彼女は彼女の世界を半分だけ段ボールに入れ、残りの半分をそこに残し、新しい住民に引き渡すことになる。彼女以上に、あの半分だけ残された世界と上手くやっていける人間などいるのだろうか?半分の世界がどのような扱いを受けるか彼女は心配していた。窓はいつも閉まっていて、シミの付いた安いベージュのカーテンが取り付けられて、壁のあっちこちに画びょうが刺さるかもしれない。彼女のお気に入りの黒い檀木の本棚にはろくでもない本や退屈な本ばかり囚人のように整列されてしまうかもしれない…でも何にせよ、父親の一声で彼女は空っぽになった部屋から出て、二度と戻れなくなるのだ。

考えているうちに彼女は泣きだしてしまった。母親はよくあることのように、足を止め、日傘を肩に掛け、無言でハンドバックからハンカチを出し、しゃがんで彼女の顔を拭いた。ついでにほどけたリボンをきちんと締め直した。そして母親は立ち上がって、泣き止まない女の子と公園の中を歩いた。