生々流転

少しだけお付き合いください

やさしい歌が好きで

彼はこちらへ見向きもせずに、鍋の中のおでんをつついて、ちくわを口に運び頬張っていた。呑気そうな瞼と裏腹に、彼がつい先程こぼした言葉に私は戸惑いを隠せなかった。

 

「卒業したら地元に帰るってどういうこと?東京で仕事を探すんじゃなかったの?」

自分の声に確かな焦りを感じながら、彼はやっとのことおでんから目を離しこちらを上目遣いで瞼をぱちぱちさせながら覗いた。少しバチが悪そうな顔をしてちくわを喉に押し込み、箸とお椀をきちんとこたつの上に置いた。伸び切った髪を手で撫でながら、目を少し泳がせている。

 「…ごめん、今はもうちょっと時間が...ほしい」

いつも通りの柔らかい口調で目を伏せる彼を横目に、私は心の内に堪えられない何かが沸き上がるのを感じた。もう、勘弁してほしい。溜息が自然と口から漏れ、一方でこんな正直な自分のことを少し嫌いになった。

大学を二年留年した彼と出会ったのは半年前のことで、ゼミの休み時間にいつもヘッドホンをしてる不思議で窮屈そうな人だった。興味を持った私は夏休みに彼を図書館に誘うことに成功し、何度も互いの家を行き交ううちにその煮え切らない態度を見かねて自分から交際を申し込んだ。秋になると四年生の彼は卒業論文に打ち込み、パソコンと睨めっこする彼を傍らに私はたいそう退屈にしながらいつも彼の本棚を漁った。ヘッセ、サリンジャー、オースター、サンテグジュペリに、中原中也の詩集と、村上春樹のハードカバーが全巻。

「卒論は進んでるの?」

私が鍋の中の最後のがんもを取ると、彼は立ち上がりパソコンの前に座った。マウスのカチカチした音が聞こえ、キーボードを打ちながらだるそうに「うん」とだけうなずいた。「まだ色々読まないといけないから大変だけどねえ」

鍋と食器を片付け、低い折り畳みテーブルを拭いて戻す。クローゼットを開け、背伸びしながら棚の上の布団を掴む。ずらしながら引っ張っていると、彼がどこからともなく現れて布団を抱え出してくれた。

夜が更け冷えてくる6畳間の端に私は布団を敷いた。彼は無言でパソコンの前に戻りキーボードをカタカタさせた。布団に潜ってスマホを取り出し、うつ伏せで友達のインスタ投稿の文字を読まずに画像だけをスライドさせる。背の低い本棚がありマンガの背表紙で目が眩む。布団のすぐ後ろには高い本棚を隔てて彼のベッドとパソコンがある。そこに彼がいて、トイレに行くときだけこちらを通る。

スマホを切って、枕の横に置く。することもなく天井を見上げ、明日のことを考えながら彼が寝るのを待つ。隣で寝る訳ではないけれど、ただなんとなく待っている。

うとうとしているうちに、部屋の電気が消えた。パソコンの冷えた青い光が中途半端に高い本棚を超えて部屋に溢れ、キーボードのカタカタした音が部屋を余計静寂にさせた。

寝返りを打って、流石にもう寝ようと決め、高い本棚の上から見下ろしている『国境の南 太陽の西』におやすみと言ったものの、村上春樹なんか読むもんかと心の中ではささやかな反抗を唱えた。来年の春に、彼は地元に戻り、私は就職活動を始める。

本棚からは、おやすみの代わりに「戦場のメリークリスマス」が流れてきた。

 

今夜はクリスマスイブである。