生々流転

日々の生活

川を渡る人

渡瀬が病室に入ると、白い病床が疎らと灰色の無機質な壁が目一杯広がった。部屋には消毒の臭いと病人の臭いが混ざりあって鼻から伝わって体を刺激する。部屋に置いてある窓際の病床に彼女は上半身を起こして座っていた。きちんと整えられた黒髪に水色がかった病人用のパジャマ、そしてそれに染められたかのごとく彼女の肌は少し青白かった。淀川久留美は窓の外を眺めていて、こちらがドアを開ける音を聞くと振り返った。

 

思えば淀川は教室にいた頃もひたすら窓の外を眺めていたのだった。目には時に蒼い秋空を映し、時に白い泡沫のような雲を流した。そのうちこちらのうつつと夢の境目もぼやけ、果たして彼女の目が窓の外を見てるのか、窓が彼女を見てるのか見分けがつかなくなった。はと我に返るとき、もしかしたら彼女は窓の外が見たいのではなくてただ自分の目に空を、雲を映したいだけなのではないか推測した。彼女は何を思っているのだろうか。昨日のことか、それとも明日のことか。そうして僕は、彼女に明日がないことを知った。

 

「私しばらく、学校来れないかも」

 

そう彼女に告げられた九月の下旬の翌日、彼女は教室の窓際の席、丁度斜め前あたりの、午前10時の陽射しが丁度彼女の紺色のセーターに落されるあの席から、ふと姿を消した。次の日もまた次の日も、窓の隣に彼女はいなかった。彼女の目に映される空も彼女に連れ去られた。教師の『体調不良』 と言う簡潔明瞭な知らせは僕の脳内を暫く徘徊した。彼女のいない教室はいつものように時が進み、いつものように授業が始まり、いつものように午前10時の陽射しが机にかかる。一週間、二週間が経っても彼女は遂に来なかった。

 

思えば淀川久留美と初めて会話したのは夏休みが終わった後の美術の素描の授業だった。同じクラスではあったが人を寄せ付けない雰囲気と性格のせいでクラスでは少し浮いていた。入学当初はそこそこ整った顔立ちから女子から昼食の誘いもあったがどれも自ら断ったらしく、滅多に笑わないため心情が読み取りにくいと関わった子は誰も彼もそう愚痴をこぼしていた。次第に業務連絡以外で絡む女子はいなくなり、一方で男子の間でか弱そうな体幹と黒いストレートの清楚なシルエットで何人かの心を密かに揺さぶっていたそうだ。

 

 

授業で人物画のデッサンをすることになった。番号順で前後がペアで組むことになっていてお互いのモデルを務める恥ずかしさ極まりない作業である。特に男女のペアは初めは見ている方も見られている方も決まり悪そうに目を逸らしたり、一方で男同士の所はふざけて眉を濃くしたり鼻毛を足したりしていた。なんて平和で微笑ましい風景なのだ。

「そういやお前、美術のペア淀川さんとらしいじゃないか」

日野はニヤニヤしながら、弁当箱の小ぶりのハンバーグを丸ごと口に押し込んだ。

「まあそうなってしまったよ」

「いいなあ、俺も淀川さん描きてえ」

そう言った日野は下を向きながら、昼食に夢中なようである。日野は淀川を少し気に入ってる。あんなさっぱりとした女子はそういない、もうちっとだけ笑ってくれたら完璧だと昔言ってた事がある。日野は右横の席に座っているから、挨拶以外もよく口を聞いてくれる。元々友好的な性格もあって、絵しか描けない陰気な僕にも話しかけてくれるのだ。

「好きと描けるのは別じゃないか」

「好きなら少なくとも描く意欲が湧くさ」

「お前のペア誰?」

「吉河だよ、男同士じゃつまんなくてしょうがない」

「誰も描く分には同じだよ」

「違うに決まってるだろうが、画にするなら女子に限るぜ、なんなら描かないで見てるだけでもいい」

「バレたらぶん殴られるぞ」

「それはそれでいい」

「はあ」

「でも相手がお前で良かったよ、後で描いたやつ俺に見せておくれ」

「上手く描けるか分かんないけどなあ」

「平気さ、後でちょいと見せてくれよ」

男子高校生らしい話をしながら、心はどこか描く相手が淀川で助かった安堵してる。他の人だと話題がないと気まずいしその辺り淀川に気を遣う必要はなさそうだ。正直絵を描いてる時と食事をしてる時は喋りたくない。日野に絵を見せたらしばらくで男子全員に廻ってしまうかもしれない。画を見せるのは好きじゃないがどうせモデルにしか興味がないのだから大丈夫としよう。昔から絵は得意であったが人間はあまり描けなかったのは、人の顔をまじまじと見るのは嫌いで見られるのも嫌だから自然と題材から外れてしまったせいかもしれない。

 

渡瀬は酒瓶と風景を描くのが好きだった。ワイン瓶のシルエットの曲線、瓶の色、ラベルの形はバランス良く整えられていて、全体が一つの美術品のように見えた。風景は特に森や川などの自然を描くのが好きだった。年頃特有の感傷のせいで風に色があるように見え、森に喜怒哀楽があるように感じた。川のせせらぎは絶えずに変調し休符が入り、水の流れていく様を空との境界が曖昧になるまで眺めたりするのが好きだった。彼は川を見ていると、自分が何をして生きているのかとうとう分からなくなり、阿呆らしくなる。橋の上から見下ろし、川に漂う鴨から、泡沫、水に泳ぐ鯉、遂に川底の砂利まで見えるようになると、体全体が川に堕ちていく感じがして恐ろしくなった。明日も美術の授業がある。渡瀬は川を横目に橋の残りを渡った。