文鳥とピアノ

少しだけお付き合いください

桑の実

今週のお題「何して遊んだ?」

小学校の頃の話をしよう。

その頃はまだみんなゲームやパソコンに疎い頃で、校庭も狭いのでこれと言った遊びもなく、時の流行り廃れに任せたものばかりだった。

 

一時期ヨーヨーが流行ってた時があった。ヨーヨーと言っても普通の小ぶりのものではなく、光ったり『技』が出来たりする、ちょっとテクニックがいるやつだ。

 

私もいくつかを母親に買ってもらった。そのうち一つをとても気に入っていた。クラスのK君はそれに目を付け、貸してくれと言ったのですぐ返せと貸してしまった。遂にヨーヨーは真っ二つに分解され机の上に置かれた姿で返された。「大丈夫だ、直せるから」と言いつつもどう頑張っても直せない。私は彼の困った顔を見て遂に怒ることが出来なかったらしい。

 

またある時期は、校庭の角に生えてる桑が実って地面にぽたぽた落ちてた。私とその当時の親友文ちゃんは好奇心が湧いてどうしても食べてみたい欲を抑えられず、放課後誰もいなくなった頃落ちたばかりの綺麗めのものをいくつか洗って食べて、おいしい、酸っぱい、甘いと騒いだ。文ちゃんは性格が男勝りでスカートを履いたのを見たことがなかった。私も(その頃は)やんちゃで大人しい方ではなかったので文ちゃんと色々して遊んだ。結局は家に帰ると腹がたいそう緩くなって、トイレに何度も通うことになったが、次の日学校に行くと文ちゃんも腹の具合が酷かったと教えてくれた。そして二人して便器の中が真っ黒でなかなかグロいと大声出して笑った。

 

もう全て昔の事になってしまった話。

 

追憶

私の親はあらゆることに慎重で、息子の進路選びに実に思慮深い人達だった。

当時私は高3で、丁度進路選びと受験でいっぱいだった。理系科目は特に得意ではなかったが、文理選択でなぜか当たり前のように理系に進んでしまった。本当は心理学とか文学の方が好きだったのに。文系科目は自分で趣味程度で勉強すればいいと、その時思っていた。

 

私は建築に進む予定だった。

建築を強く勧めてくれたのは美術部の顧問で、本当はそんなに尊敬していた方でもなかったが、私は押しに弱かった。建物を設計したり描いたりするのは好きだったしなんとなく建築という道が見えてきた。

 

そのことを三年の夏くらいに親に言うと、彼らはあっさり認めてくれた。正直こんなにすんなり通してくれるとは思わなかった。

 

一週間後の話である。父親は夕飯のとき、わざとらしく思いついたように、茶碗の中の米を覗きつつ口に掻き込みながら困ったようにこう言った。

「そうだ、この前お父さんねえ、建築関係の進路を調べてみたんだけど...どこもちょっと、ブラックっぽいんだよねえ」

来たよ、またこのパターンだ。いっつもそう。今回だけ例外なんて都合のいい話はなかったんだ。

父親が話すと、母親は大よそ父の味方である。

「そうよ、あなたはデザインがやりたいのでしょ。でもね、建築に行ってデザインができる人なんて一握りよ。あなたがイメージしてる建築家になるのはすごく難しいらしいの。だから、もう少し考えてみない?」

 

私は押しに弱かった。押されてもなく、ただ他人が指一本でちょいと推してみれば、私は簡単に倒れ、流される。自分のはっきりとした意見もなく、ただ人の言葉に身を任せ川に漂う木の葉のように生きていく。父と母の言葉は正論だし、今まで間違いだった事は一度もなかった。きっと間違いはあるのだけれども、少なくとも私の人生の中では、いつも正しかった。それでもいいから、自分はそうしたいからほっといてくれ。とても簡潔で分かりやすい言葉なのに、そう言ったらきっと親もしょうがなくなるだろうに、それでも反対してきたら、ちょっと頑固な自分に戻って突進してゆけばよかっただろうに…私はいつまでも親のボードの上の駒なのだろうか。私は変なところでが頑ななのに、こんなにも弱い。

 

「あなたはもっと、芯の通っている人間だと思ってた。」

好きな先生の言葉が今もはっきりと、頭の中で聞こえるのだ、壊れたテープのように。

 

Thinking Time

気まぐれに立ち寄った本屋で気まぐれに立ち読みした啓蒙書の話です。

 

私は啓蒙書が嫌いな方です。嫌い、と一口では言えない感情かもしれません。本来私は自己啓発系が大好きなのです。中学のころなんかは、『チーズはどこへ消えた』、『これから正義の話をしよう』、『君たちはどう生きるか』など、啓発ってほどではないが哲学する本を沢山読みました。将棋名人の羽生さんも本を出していて、彼の本も三冊程読みました。病院で『バカの壁』を見かけたらどの本よりもそれに手を出してしまう。それほど、今も思わず買ってしまいそうなくらい好きなのです。

 

なぜ嫌いかというと、どれも期待外れだったからです。それは内容に対してではなく、内容はどれも思う以上に面白く有意義で、読んだ後はいつも視野がパッと開ける感じがするしためになったと思うが、私が求めてるほどそれらの本は私の人生に多大な影響を与えなかったからです。それらの本は閉じてから三分したら頭が平静になり、三時間後には本の言葉は意味を失い、三日後には完全に忘れてしまいます。もしかしたら小説も新書も、どんな本もそうかもしれないが、私は往々何かを期待して啓蒙系の本を購入するので、変わらない現状に、あるいは変えようとしない自分にがっかりするのです。まあつまるところ、すべて自分のせいなのでしょう。

 

よっていつからか私は、買わなくなったのです。タイトルだけ見て独断と偏見で買わないようになりました。どうせ読んでも変わらない、意味がないと勝手に決めました。嫌われる勇気、幸せになる勇気、勝手にそれを読んだ自分の結末を想像して、いまだに読んでません。そうして段々、本に限らず何かを買おうとするときに、私は「それを手に入れた自分」を想像せずにいられなくなりました。コンビニのお菓子も、きれいな洋服も、面白そうな本も、すべて、それを買った後の自分は幸せそうか、すぐに飽きてしまうか、無駄にならないか、考えます。大概長い間悩んで買わないことにする。金に困っているわけでもありません(少しケチだけど)。きっとそのせいで誰とも付き合えなくなるんでしょうね。

 

さて、気まぐれに立ち寄った本屋で気まぐれに立ち読みした啓蒙書の話をしよう。精神科医が出した本でした。こんな本受験期に結構読んだのになんで今更読もうとしたのだろう。目次をぺらぺらとめくって一通り読んで、気になったところを詳しく見るのが自分の立ち読みのスタンスです。そこで目にしたのは、継続する方法。継続できる筆者は、やり通そうなんて考えてない。いつも今のことしか考えてない、その結果が継続となった。それが「今を生きる人」。続ける結果を考えてもモチベーションは保てるが、たまにそれはすごくしんどい。理想との差を目の当たりせずにはいられなくなり、続けられない、結果ばかり気にして今をもまともに生きられない。それは「未来を生きる人」。未来ばかり考えていると、未来は来なくなる。今も掴めなくなる。それは私にぴったりでした。

 

結局その本も買いませんでしたけど。とりあえずこれからは好きなものを買ってみよう、興味あることも始めてみよう。この気持ちももう少ししたらまた忘れてしまうのかな。近い未来を考えながら私は今を生きたいと思った。

 

ムダにならない勉強法

ムダにならない勉強法

 

 

雨が降るりそうなじめじめした冬の日に、不意に襲ってくる懐かしい空気を追いかけたその先にあるものは

 

小さい頃に住んでた都市の空の記憶と

少し古くなった石造の家

埃っぽい道路の脇を歩いてる情景

温泉旅館の廊下を歩いてる気怠さ

 

それらは全て自分の中にあるはずのものなのに

なにかの五感の刺激がないともう引き出せない

悲しいほど愛おしい過去の記憶

 

マドレーヌを紅茶に浸した一瞬の香りと共に去る

 

 

 

 

 

 

 

夢Ⅱ

日ごろ自分が考えていることの答えは、偶に夢となって出てくる。

いいや、もしかしたら答えという程のものじゃないかもしれない。何気ない手がかりとか、小さなヒントのようなものだ。

電車に揺られうたた寝したり、本を片手に意識が朦朧とした時、尋常の道路を歩いてると我知らずに道端に逸れて、眠りという浅い池の中へゆっくり入り込んでいく、そのような気持ちである。

夢の中で誰かが繰り返し何か大事なセリフを言ってたり、宇宙のような無の暗闇の中で自分が何かを呟いてたり、私はとにかくそれらのことを覚えられるように繰り返し何度も、夢の中の主人公に言わせるのだ。

不思議なことに夢から覚めると、池から出たばかりだと裾は辛うじて濡れているものの、瞬く間に記憶はすべて水のように蒸発してしまう。池にある砂金を何度も掴もうとするものの、両手に残った微かなものさえ水とともに指の隙間を通って跡形もなく消えてしまった。さらにくみ取ろうとするも空振りするばかりで気づいたらいつもの道路の上を歩いていた。

そしてまたいつか、会える日まで。

読書案内〜夏目漱石『門』〜

角川文庫を読んだのだが、本の背面のあらすじがあまりにもネタバレだった。それからと同じくどうしてもあの表紙が好きだったから本屋を探し回った。もうほとんど残ってない様だ。

 

『それから』に続いて、人妻を奪った主人公のその後をほのめかす作であった。主人公の過去は必ずしも『それから』の主人公と一致しないが、時系列的には噛み合っている。大まかに言えば一見平和に暮らしてる夫婦の心底にある罪の意識と、悟りを開く事の難しさがテーマである。主人公と年齢的に離れすぎているので色々難しくて気持ちが分からない。しかし自分から見ると主人公は一応就職しており罪の意識にうなされるものの奥さんとはラブラブで暮らしにも不都合がない、偶に子供がいなくて寂しかったりするがなんと平和でハッピーエンドなのだ。

 

それでも宗介は友人の消息を聞いて過去の罪の意識が鮮やかに蘇り現実逃避で悟りを開きに行くが当たり前のように失敗して帰ってきた。「門」は悟りの門という意味もある。罪から逃げていたはずなのにいつの間にか罪悪が目の前に立っている。春になったけどまたじきに冬になる。そんな感じで物語は閉まりました。

 

夫婦がイチャイチャしてる日常が本の半分以上もあるんだから(時折暗黒面を匂わせているが)凄くのんびりに見えます。なんだか一番よく分かりません。私に悟りとか罪悪感とかは早すぎたようです。

 

 

門 (角川文庫)

門 (角川文庫)

 

 

 

 

不思議な夢を見た。

私は夜電車に乗っていて、帰路についていた。電車の中は空いていて、席が所々空いていた。しかし降りるはずの駅には違う名前の駅が出来ていて、それを過ぎても家から遠ざかるばかりだった。私は家に帰れないまま、逆方向の電車に乗り、世の中に何が起きているのか見ようとした。しかし皆は至って普通に生活していて、迷いなく問題なく、乗るべき電車に乗り降りるべき駅に降りることが出来るのだ。たまに降りるとそこは懐かしい風景ばかりで、果たしてそれが幼い頃の記憶なのか夢で見た風景なのか分からなくなった。周りの人に道を聞くもみんな知らないと言う。最後は知らぬ住職が、ただ女の人が森の中に立っている意味を表す漢文を教えてくれた。

夢から醒めるとただひたすら懐かしく、どこかそぞろ恐ろしい気分だった。