文鳥とピアノ

少しだけお付き合いください

五年後の自分へ

 

前略

 

  寒い季節になりました。

  こちらは紅葉が進み、冬の空気がじんわり体に纏わりつきます。風は冷たく、枯葉と煙が混ざった冬の匂いが故郷での日々を思い出させてくれます。思い出の故郷はいつも冬でした。

   ところで、私は今たいそう迷っています。大学生活は楽しいのですが、このまま  なんとなく過ごしなんとなく就職し、なんとなくつまらない余生を送るのはとても残念に思えます。もしあなたが今、そのような生活を送っていたら、どうか私を責めてください。そしてどうか、本当に歩きたい道を、やりたいことを、探してください。私はとても頼りない人間ですが、少しでもあなたが幸せだと思える生活を送れるよう沢山のことにチャレンジしてます。近いうちにブライダルのバイトを始めようと思います(まだ面接にも踏み出せないが)。ベースもやり始めました(すごくポンコツでです)。頑張って自炊してます(味付けが凄く下手です)。

  あなたはきっと私が羨ましいでしょう。大学生は誰よりも沢山の時間、余力がありますので。しかし、束縛のない自由はただの放肆です。親は側にいない、責任を共に背負える教師もいない、大学生は誰よりも自律を試される時期なのです。

  芽吹きの季節に私が少しでも成長出来ていることを、願います。

 

 草々

 

はてなブログ5周年ありがとうキャンペーンお題第2弾「5年後の自分へ」

http://blog.hatena.ne.jp/-/campaign/hatenablog-5th-anniversary

 

飲み会後の虚しさ

 

飲み会の後に虚しくなる事はありませんか?

 

私はカラオケでワイワイ騒いだり居酒屋で愚痴を言ったり、色々はしゃいだ後解散すると一気に虚しくなります。

 

それは解散した後に限らず、時によっては飲んでる途中などにも感じます。個人によるが私の虚しさ決して楽しい時間を懐古したり、一人になって寂しいからとかではありません。

 

酒が入ったせいでいつもの自分よりちょっとハイテンションな自分とか、自分が自分でなくなる感じに少し疲れたのだと思います。どうでもいいメンバーと絡む事に疲れたのだと思います。思い出せないような鬱の渦が酒の溜まった胃の中でぐるぐる廻り、自分は何をしてるんだ、これから何をすればいいんだ、死にたい死にたいと思うのです。

 

飲み会は一緒に飲むと欝な人、一緒に飲むと楽しい人がいるんです。

 

そして誰と飲んでも人と絡むことの疲れから逃れる事はできない。羽目を外す疲れからも追われる。鬱でも楽しくなってもあとからの虚無感からは逃れない。少なくとも私は今まで一緒に飲んでて楽だなと感じた人はいません。確かに酒の席では誰とでも仲良くなれる気がします。でもうまい酒、人間関係の円滑化、いつも抑えられてた本当の自分の解放、一歩前に踏み出せる勇気、だけで終わるようなそんな都合の良い話はありません。何かしらの代償が伴うのが普通なのです。世界はそのように均等が取れているのです。

 

もう誰とも会いたくありません。

 

ストレイシープ

passive(受動的)とpassion(情熱)は同じ語源らしいです。

 

何かに情熱的になれるのは、何かに取り憑かれてる状態であり、自主的になにかをしようってわけではない事を示しています。

 

無意識に何かに取り憑かれると、人はそれに悩み、そして無我夢中でそれに取り組めるようになるのです。

 

その何かは自分から探すだけでなく、向こうからやってくる事、つまりある種の「縁」も大事だと私は考えます。

 

しかし、そんな事は果たしてあったのか。あったのかも知れない、でも長続きした試しがない。そんなの、全然取り憑かれてないじゃない。やるべき事がわかってないじゃない。

 

高校の在学中に民俗学にはまったのは文理選択の後で、大学で自分で勉強しようとするも買った本は積めるばかり、進路選択で精神医学に興味が湧くも医学部受験に耐えられず、兼ねてから生物を専攻しようと考えてたので第二志望の地球科学科に入るも第一志望の学祭を見て妬むばかり。絵が好きなのは口先だし油絵の具は開封してない。

 

こんなに好きな事が沢山あるのに、何一つ好きではないのではなかろうか。何一つに取り憑かれてないじゃないか。全部全部やろうって思っても、この体はそんな事が可能なのか。そんな言い訳を考えてる時点で無理な話ではないか。

 

計画してるといつの間に結果が出てしまった。そんなのまるで高校の時じゃないか。自分らしく生きる事は辛かろう。事を成すことの辛いことよ。己の性分を恨むばかり。

白川郷旅行記〈日帰り〉

お盆休みに上越地方へ旅行に行ったのですが、白川郷に寄ってみました。砺波の合掌造り集落にも行きました。規模は断然に白川郷の方が大きく、当日はなんと土砂降りの雨でお陰で妙に異境感が出てました。

 

世界遺産だからこそ残念に思った箇所を幾つか挙げます。お盆だからなのか、白川郷は雨の日ても大変混雑してて、古代遺物の雰囲気はあまり感じられません。人が多いのもあるが、それと他に建物と人間が馴染み過ぎて(普通に家が店や展示館に使われてる)コレジャナイ感があります。合掌造りの家の前に普通に軽車両が止まってたり、ジュースなど売ってたりします。とは言って京都のような自然な馴染み方ではなく、観光地独特な馴染み方と言うべきか、つまり人間が村よりインパクトが勝ってしまって、そこにある村が白川郷である必要を見い出せなくなります。それとは逆に砺波の方は人は少ないが、綺麗に整備されすぎてて人の気配を感じないのが不気味です。庭の花も芝生も一寸の乱れなく続いてて、作り物のように感じました。

 

とても皮肉な話ですが、村を守るために世界遺産登録をする、しかしその途端に価値は建物や環境に置かれてしまい、本来の人間と環境の共存関係が崩れてしまう。村は元の村ではなくなるのだ。誰も住んでいない家、生活感のない家、「世界遺産」という名の家、果たしてそれは元の村と言えるべきか。従来の規律がなくなって、ただの見世物になった村の、何か大事なものが失われてはいないか。

我が家にある価値観の違い

私の家庭は恐らく一般の家庭より喧嘩が多く、短気で神経質なB型の母のおかげでとても平和とは言えないものだと思います(ここで血液型を提示したのはあくまでも母の一つの特徴を示す意図によるものである)。不安定なだけあって私の家庭はよく修復し、それがほぼ毎日続く程我が家、すなわち父と母、弟に私の関係は再構築されてきた。私は今や一人暮らしですが、実家に帰るたびに喧嘩の多さを体感します。

 

・父と母

今回のお盆の帰省からまだ2日も経ってないが、既に数多くのイザコザが産まれてきました。まず帰ると先に私は箪笥の夏服の整理をしたのですが、タオルや毛布を置く引き出しに何故かしわくちゃになった紙袋がありました。よく見るとちゃんとラッピングされててFather's Dayのシールが貼ってあり、つまり2ヶ月前の物です。未開封でした。恐らく送り手は母なのですがかなりの異様さにリビングに居る父に問い詰めた所、知らないとひらすらとぼけます。離れた椅子に座っていた母に見せると、諦めたように首を振る。どうやら父の日に母が送ったものの父は素っ気なく返事をしてそこら辺にポイと置いて見つけた母が回収したらしい。母はそのような情をとても大事にする者なので、その残念さと言ったら限り知れず、父はと言うと開けるのが勿体無いから開けるなと言います。中身はシャツなので勿論母は着て欲しいわけで、父はその気持ちを汲み取る気もありません。母へプレゼントなど送る事も知りません。そしたら母はいつもストレスが溜まって怒ったものです。そんなズレた2人がよくも何十年も夫婦をやってこれたなあと度々思います。

 

・親と弟

弟は今中学生で勉強が嫌い、ゲーム好き、口達者の上乱暴でわがままです。悪い所は幾つも言えるのだが不思議な事にいい所が思いつかない。健康なんてどうでしょう。その弟はつい最近親から誕生日に貰った腕時計を林間学校でなくしたのですが、めんどくさいからか学校に腕時計について尋ねたりしません。学校でも1週間に何度かの頻度で消しゴムから水筒までなくします。なくしたことに気付いてもめんどくさがって探さない人です。親のお金で買ってるものだから自分には関係ないという風です。そんな弟が誕生日に新しい自転車が欲しいと言い出します。そうすると親は無くした腕時計の事を学校に聞いて欲しい、物を大事にしない子供に贈る物はないと言います。「それはぼくの腕時計だからパパには関係ないじゃん」と弟が反論すると、「パパのお金で買ったからパパの腕時計だよ」と父は返す。「だったらぼく1度も誕生日プレゼント貰った事ない、腕時計はパパから借りた物だし誕生日プレゼントくれよ、誕生日プレゼントをくれない親とかいるの?」とせがみます。そう来ると家の大体の人は怒り狂って返す言葉がなくなります。自分からは何も親に与えたりしないくせ何もかも親からせがみ取ろうとする嫌なやつです。可哀想な弟よ、いつか口の悪さで自らの命をたつ事にならないといいのだが。もっと我慢強く話し合えるといいのだろうか。

 

・親と私

私のストレスは大方親から来ていると言っても過言ではない。親は所謂意識高い系であり、学歴が全てだと思っていると断言できる。帰省する度中学の同級生の誰々がどこに落ちたか、父の会社の部下の娘がどこに受かったか、云々、お前は入学した時首席で新入生代表の挨拶までしたのに、今となっては、etc..この点に於いては完全に私自身の問題と言えるが、帰省する度無神経に傷を抉られると全身から悲鳴が上がる。その原因もきっと私自身にあり、未だにそんな事を気にしてる自分が悪いのだと。親の言葉を一笑して吹き飛ばせるような充実した人生を送ってないのだと。たった一つ欲を言えば、私は親に信じて欲しかったのかもしれない、あの時も、今も。私が私を信じていなかった分、親には信じて欲しかったのかもしれない。学歴を気にしてる親、レールを敷いてくれる親、そのすべてが私の将来のためであると彼らは信じて止まない。私はそれを知ってる、知ってしまったから、両親を憎めない、憎めないから哀しいのです。

自己紹介の代わりに

あまりにも暇なのでブログをはじめました。

 

見よ、これが世間一般の大学生の有様だ!期待にありもしない胸を膨らませ桜満開の下晴れて大学に入ったというわけではないが一応私も入学時はあれやこれやを学ぼう、自炊しようと計画を立てていたものの、いざ大学生になってみると解放感は甚だしく、まして一人暮らしだと親の束縛もないわけなので私みたく不真面目な人間はぐうたらしてしまうのも仕方ない。己の中のぐうたらと戦うことこそ大学生の第一の関門だと私は思う。

 

きょうは日曜ドラマ「仰げば尊し」の第4音です。先生が死ぬフラグ立て過ぎてるから死ぬとわかってていても見るのが辛い、わかってるこそなのか。これからの美咲吹奏楽部の成長に期待できます。樋熊先生はいつも突飛なことを言い出すのでひやひやしますが。

 

「ここで良かったじゃないか。憧れと競えるチャンスを手に入れたのだから。」最後に樋熊先生の言葉を引用させてもらいました。