生々流転

日々の生活

好きなことより自分にしかできないことを

椎はご存知でしょうか。

 

夏目漱石『三四郎』にも出てくる常緑樹で、葉の裏が金色で風が吹くとよく分かる木です。

そのシイ属の木で、スダジイという種があります。

 

スダジイは元は陰樹であり、日陰が好きなので林の中ではできる限り陰になっている所にいます。

しかし、イスノキという種が生えていると、スダジイは陽樹の役割をします。

日当たりが多い場所しか残されていないので、スダジイは競争をやめたのか、自分が日当たりの所を選ぶのです。そうすることでイスノキもスダジイもめでたく生存できるわけです。

 

このように生物学上では、その種の役割という意味で「ニッチ」という言葉を使います。

自分の好きな場所を選んでばかりでは可能性も少なく、時に身を削る競争に巻き込まれて滅びます。好きだからといってみんなが出来ることをやってばかりでは当然負けるリスクが大きいのです。決して競争がいけない訳では無いのだが、もし好きな事以外に自分にしかできない事があれば、それを職にした方がリスクも低いし成功する確率も大きいに決まっているのです。実際関東ではスダジイはイスノキより優占している(数が多い)。

 

こんな当たり前の正論を述べるなんて自分らしくないが、常々生物から学ぶ事は多いなと思い投稿しました。誰かの役に立てたら幸いです。

六畳半笑話体型~聖なる怠け者の帰還~

 

ほぼ二か月ぶりに更新します。新学期の始まりでドタバタしてたのは逃げ口上で、本当はほとんど読み物をしてないがために書く意欲も失せていました。遅れたが今学期の抱負と部活動について書きたい。

 

今年度から新しく始めたことと言えば、ラテン語の勉強である。あの大名鼎鼎なヘルマン・ヘッセの少年時代を思わせる『ラテン語学校生』を読んだ時から、私はラテン語への憧れを拭いきれずにいた。もう一つは、専攻関係で学名に触れる機会が多いからというのもある。膨らまない胸を膨らませラテン語の授業へ一度飛び込んだものの、人数の少なさといいメンバーに漂う怪しいオーラといい、情弱な私はバイトも考慮して今年度の履修を断念し、自学自習に努めると決めた。一つ言わせて頂きたい、私は決してあの分厚い洋書の難しさと教授の厳しさに慄いたわけではない、決してだ。さあ借りた教科書はいつになったら開くことやら。

 

あとは、私は英語の発音にコンプレックスを持っているがために、BBCニュースを二日おきに詠唱することにした(←毎日やれよ)。緊張して早口になったりスピーチが下手なのは発音云々の問題ではなく気持ちの問題なのは重々承知の上、発音を良くしたらもう少し余裕をもって話せるようになるのではないかと、期待してる。

 

呆れる体型を少しでも改善したく、ジムにも通い始めた(週1~2)。高校生無料は羨ましいが、バイトも始めたのでお金に対する心理上の負担も減る。経済的負担ではなく精神的負担であるのは、お金に困ってはいないが親の仕送りに頼るのが情けなくて仕方がないからである。自分で稼いだお金なら、好きなように使っていいと思う。如何せん家賃と学費を自力で稼ぐ人が出てくる年なのだから。本末転倒しない程度に働きたい(ラテン語の履修を諦めた人間が言う事ではない)。

 

ここでやっと閑話休題今週のお題へ。

私は高校、大学と美術部に属してきたが、大学の美術部は特に緩い。活動といった活動はなく、ほとんどみんな個人で作業をする。家でコツコツデジタル絵を精進させる輩もいれば、新歓以降キラキラサークルに埋没し顔を出してない奴もいる。前までは部長職に就くなど今生御免と思っていたが、世代交代が近くなり部内独裁政治を行うのも悪くはないと思い始めた。好きな時に合宿をし好きな時に部品を注文し、美術室を完全に我が物にしてしまいそうだ。きっと独り占めをしたいために下級生にはあまりスペースを使わせないだろう。そういえば今描いてるもの、今月に完成させたいから、来週はできるだけ残ろう。

 

 

今週のお題「部活動」

香港澳門旅行記

大学に入ってから初めての海外旅行のような気がします。

行ったのは二月末で日本より暖かいと予想したが、前半の香港は普通に寒く(11℃)コートがほしいくらいでした。

香港はいくつかの島に分かれていて、夜景がきれいなヴィクトリアピークから人影が途絶えた無人島のような島までフェリーで行き、その島はいくつかの果物屋と公共図書館が一つ、小さな空っぽな幼稚園と廃棄された家電の山、団地から海へ向かうと海浜には野良犬が何匹も散らばっていて道路を見つめていて、夕方に船乗り場に向かうためにヤシ科の木の茂る小さな山を登り、熊やらイタチやらが出てきそうな空気を一列で切り抜け、頂上に近くなると大きな寝台のような丸い墓がオオオニバスのように道の両側山の斜面に浮かんでいて、丁度たそがれ時なので異様な雰囲気でした。

日が暮れるのを恐れシンデレラの気分で急いで山を下り、五時五十の船に間に合った。日はすでに暮れ、あたりには明かりが点いていた。

乗客の少ない小さいフェリーに揺られながら帰路に立つと、辺りは真っ暗になって波のおかげで辛うじて空と海の区別がつく。

全身で風を感じながら身を欄干の外に投げ出してみると、真っ黒い海の水に何もかもが吸い込まれそうで、海に浮かぶ島はまるで海面に角が生えたようだ。

もう少し運ばれると香港島の港の明かりがぼやけて見えるようになって、何艘ものフェリーの影が紙芝居のように海の上を泳いでいた。

夜の海は、生きている。

国語の教科書に載っていた話をひたすら思い出す

このテーマは長くなりそうだから、何回に分けて書くことを検討している。

 

この記事を書こうと思ったのは大学生協の本棚でヘルマンヘッセ作『少年の日の思い出』を目にかけ、懐かしさのあまり即買いした日がきっかけである。

 

思えば中学、高校の国語の教科書は個人的に好きであった。まだ義務教育だった頃、公立だったので学期始まりの朝の会などにみんなが教室に集まって、クラスの男子が教科書が詰まれた段ボールを運び入れる様、ずっしりとした教科書が一冊ずつ前から回ってきて、その上に油性ペンで名前を書き込むドキドキ感、ロボットのような担任が大声で冊数を確認する声、教室内の喧騒、すべては高校と大学では体験できない趣だった。そんな大事な記憶をも自分はとっくに前に忘れていた。

 

教科書が机の上に積まれてひと段落落ち着いたら、自分は必ず真っ先に国語の教科書を読むのだった。一旦読み始めたら止まらない。それだけはおそらく高校までずっと変わらなかったろう。国語はそれほど好きではないし寧ろ試験の類は苦手だったが、中学の国語の表紙は秀逸だった。

 

知る人ぞ知る、井上直久さんの「イバラードの世界」。こんなコラムも載っていたなんて覚えてませんね…しかし制作過程の写真は衝撃的だったのではっきり覚えてますよ。馴染みのあるものでは『耳をすませば』で雫の小説に現れる背景がそれです。いいですねえ、とても。

 

閑話休題。寧ろ載っていた作品はどれも印象に残りすぎて書ききれないくらいだが、とりあえずクジャクヤママユガの話をしよう。

 

『少年の日の思い出』はヘルマンヘッセの随筆で、改めて読んでみると意外と短かった。なんといっても主人公の罪の意識や、友人への妬み、スリル満載の盗む過程、生々しい心情と動作の描写が思春期の中学生の心にかなり響きます。『それらを指で粉みじんに押しつぶしてしまった。』という結末のインパクトが物語全体の闇を深くさせ、自分が大事に大事にしていたものを、自分の指で一つずつ、粉々に押しつぶす主人公の心の痛みを想像せずにいられない。そして自分も痛い。なんて悲しい思い出だ。皆が皆虫取りに夢中だったわけではないが、中学生なら似たような傷心な経験は一度や二度したことがあるはずである。丁度クラスにエミルという陽気でノリがいい女の子がいたから、クラス内のエーミールブームは一か月しても収まらなかった。

 

訳者の岡田朝雄さんはこれもまた面白い方で、ドイツ文学者で元日本昆虫協会副会長である。あとがきを読むまで知らなかったが、『少年の日の思い出』はドイツ本国ではあまり知られてないらしい。ヘッセの作品集にも全集にも収録されておらず、文献にはタイトルすら出てこない。新聞や雑誌に『蝶と蛾』『小さな蛾の話』として発表されたこともあるようだが、それっきりである。二十年後にドイツ文学者高橋健二教授がヘッセを訪問され、別れ際に渡された新聞の切り抜きにあったのが後の国語の教科書に載る『少年の日の思い出』となった話である。

 

蝶や蛾の話をしたらきりがないが、今回のオチとしては私はこのヘルマンヘッセの随筆集と一緒に一週間香港・マカオ旅行へ出かける事になった。暇つぶしに何かを持っていこうと積み本を漁っていたらこれが出てきた話だ。正直国内さえ回れてないのに海外なんて行くものではないと思っているが、無事渡航できることを祈っている。

 

文庫 少年の日の思い出 (草思社文庫)

文庫 少年の日の思い出 (草思社文庫)

 

 

 

 

 

色即是空-『行人』夏目漱石

読んだのは新潮文庫のもの。後期三部作の二作目であるが『彼岸過迄』は読んでいない(高校時手に取ったが読めていない)。

 

行人 (新潮文庫)

行人 (新潮文庫)

 

 

 

多くの読者はまずあらすじに驚かれるだろう。新潮文庫のあらすじはこう(以下引用)

 弟よ、私の妻と一晩よそで泊まってきてくれないか?学問だけを生きがいとしている一郎は、妻に理解されず、親族からも敬遠されている。我を棄てることができず孤独に苦しむ彼は、愛する妻が弟の二郎に惚れているのではと疑い弟に自分の妻と一晩よそで泊まってくれとまで頼むが...。

 

このあらすじははっきり言って、よくない。確かにそこは作品のハイライトでもあり兄の性格をよく表した事件であるが、物語の十分の一にも至らない、客の目を引くためだけに書かれたあらすじである(たとえそれがあらすじの機能であり自分がそれのために釣られたのも事実だとしても)。

 

それに比べて角川のあらすじはインパクトは減るが、あらすじらしいです。(以下引用)

自我にとじこもる一郎の懐疑と孤独は、近代的個人間の運命そのものの姿である。「行人」の悲劇は単なる一夫婦の悲劇ではない。人間そのものの心の深淵に、その宿命的な根を求めなければならない性質の悲劇だ。「死ぬか、気が違うか、宗教に入るか」主人公の苦悶は、漱石自身の苦しみでもあった。大正元年作。

 

自分も今回の感想文を書くに至って沢山のブログで人の感想を読み漁っりました。他人の意見は新しい視点と考え方を与えてくれるので自分の感想の確認も兼ねて必ず読んでいます。私はまだ読書歴が浅く夏目は何を読んでも「すこい」とか「さすが」しか出てこないので批判的な感想はとてもためになる、何より夏目はこのような感想というものが書きにくい。支離滅裂なものになるがいつものこととして大目に見てほしい。

 

この物語の語り手は二郎(名字は長野)で、主人公はその兄の一郎。一郎は学問に励んでばかり肝心の人間としての生き方を学んでこなかったと言います。妻とどう接すればいいか分からずいつも冷淡のため愛想を尽かれ、家族からは腫れもの扱いされ「こんな子に育てた覚えはない」と背後で家族会議になる。兄嫁は兄をよく扱えてるように見えるが実は全く心が通じてなく最後に意味もなく頭を殴られる(またはビンタされたともとれる)。家でただ一人兄と少し会話ができた弟も結局喧嘩して家を出る。最後の章ではどんな人間が知識人の一郎と付き合えるか、作者なりの解答がHさんという人物として現れる。兄の思惑もよくある長い手紙という形式で語られる。読み進めるとどうしても知識人、学者、コミュ障な兄は夏目本人の姿に重なっていってしまうが、他のレビューやコメントを読むと、一郎は全ての近現代の知識人の姿という考え方もあります。   

 

ぶっちゃけ長いしテーマが幾つもあって重なって交わって分かりにくい。(それを書けることが夏目の凄い所と私は思っているが…)『三四郎』『それから』はまだテーマがまとまっていて議題が明瞭だった気がするが、オムライスで言うと『行人』は「夫婦とは何か」がチキンライスであり、「兄という人間について」が卵になって下のライスを隠し、ケチャップが「宗教」で量は少ないくせに目立ちます。『こころ』に似ているのがHさんの長い手紙が心持ち全体の三分の一を占めている点(実際はもっと短い)。その手紙がなぜ大事かというとそこには夏目の言いたいことのほとんどが詰まっていると思われ、最早それだけでも良さそうと思うくらいだったからです。当然それだけではおおよそケチャップを吸うだけになるので面白くないが。

 

逆に、手紙は夏目の自己弁護であり兄という人物を美化する蛇足という意見もありますが、自己弁護で美化しているのはその通りでした。コミュ障な兄二郎は「他人(私)に何か求める以前に自分(家族)が何か与えてくれたのか考えろ」と家族を批判し、子供みたいにしゃがんでカニを観察したり自然を愛する兄の姿を描き「ほらあんな変人でもこんなにかわいい所があるんだよ」とフィルターをかけ、今まで兄が家族にした仕打ちをかき消すかのように兄の苦悶と可哀そうな処を延々と、兄から「欲がない自分を幸せにできる人間」認定されたHさんはこんな兄も僕だけが知ってるんだよと滔々と自慢する。そのHさんが妙な人間で、一見兄と正反対な、何も考えてない人間に見えるが、その実兄の好き嫌いが読めて、バカだと自称しているが欲しいときに欲しい言葉を掛けるし、『自分がどうにか絶対になって苦しむのをやめたい』など意味不明で難解な議論を、『そんな難しいことを考えずにお前が自然とカニに夢中になっていたあの瞬間は絶対だ』と分かってない様で的を得た意見を兄に一蹴し知識人の兄をさえ黙らせる。こんな賢くて欲がない、ひねくれものの心がわかる理想の王子様みたいな人間はいねーよ。手紙は蛇足と言う気持ちも分からなくもないが、自分は手紙の部分が一番面白く感じました。ちなみに二番目に面白かったのは二郎と兄嫁が一緒に泊まって兄嫁が暗闇の中弟の前で化粧したり着替えたりするシーンです。

 

『それから』もそうですが夏目は自然に対する思入れが強い。山や海の方もそうですが、「人間は自然に逆らえない」「自然に生きるのが一番」というメッセージが強く伝わってきます。そのような心も、生態学専攻の私が夏目漱石の本に惹かれる理由の一つになるだろう。

そら模様

空と言えば何を思い浮かべますか。

 

これは『から』でも『くう』でもなくて、『そら』の方についての話です。

 

日本語では『空目』『空耳』、夏目漱石《琴のそら音》(とても面白い話だが今回は割愛くぁwせdrftgyふじこlp)などは幻聴や幻覚の意味を帯びています。『空音』は他に『空言(そらごと、くうげん)』と同じく嘘をつくという意味もあって、それは宇治拾遺物語《稚児のそら寝》(狸の寝入りをするショタを見てお坊さんたちがニヤニヤする危ない話)とおおよそ『そら』の意味は似てますでしょう。初めて気付いたが両者のタイトルは対句に似た趣があるが果たして夏目は意識してたのでしょうか。『うわの空』は平安時代から使われ、落ち着かないさまを表す形容動詞『心空なり』から来たそうだ。

 

お空を飛ぶ方のそらは、日本では実に多様な空を表す言葉があります。昔から風や雲など自然を分類する和語は実に多いのです。古くから時間の推移を空で表した言葉では夜半から夜の明けるころまでの順に夜明け(よあけ)明け六つ、暁(あかつき)夜の明ける頃、東雲(しののめ)東の空がわずかに明るくなる頃、曙(あけぼの)夜空がほのかに明るんでくる頃、春はあけぼの、黎明(れいめい)夜が明けて朝になろうとする頃、彼誰時(かわたれどき)夜明け前の薄明のとき、人影が見えても、それが誰であるか判明しないような時間、誰彼時(たそがれどき)夕方の薄明でその逆の時間帯を表す。『君の名は。』では(かたわれどき)などと言ってましたね。

 

季節や天気を表す言葉はさらに多い。小春日和なんかかわいいですね。娘が生まれたら小春とか日和って名前を付けてみたいものだ。東京事変の『群青日和』は豪雨から始まるのが大好きです。雲居の空は遠く離れた空(天国)や宮中を表します。ちなみに私が大好きな源氏物語のヒロインは雲居の雁です。蒼天、天穹は厨二心がそそられます。

 

きりがないのでそろそろ本題に入ると、私が一番好きな天気は曇天なのです。小さい頃の故郷思い出がずっと曇りだったせいもあるかもしれません。故郷は曇りが多い町だった印象です。それとは別に、私は季節の中では一番夏が好きなのです。真っ青な空と少し湿った空気、木々と草の匂いからラムネの涼しい音まで全部が好きで仕方がない(蝉だけは苦手だが)。しかしその「好き」と秋から冬にかけての鉛色の空の「好き」とは別です。例えで言うと曇天の好きは、一緒にいて落ち着く女の子、いつも寄り添って慰めてくれる女の子が好きなのと一緒で、夏の青空が好きなのはまさにbacknumberが歌っている高嶺の花子さんへの好きで、憧れに似たような切なさがあります。私の心は夏模様じゃなくてくもり模様なので、きっと真っ青な空を見上げると自分の心情との矛盾に耐えられないのです。人にもよるが、ウキウキしてるのに急に雨が降り出したり、恋人と別れた直後に雪が降り出す、あの心情と天気が合致しない感じです。だから普段の私は曇天が一番落ち着くのです。悲しい事があったら雨など降ってほしいですね。

 

長くなりました。こう言ってはいるが私は基本快晴も晴れも暴風雨も、何一つ嫌いな天気はないですし雷などの自然現象も大好きです。優しいだけではなく怖いときもあるのが自然の醍醐味だと思う。

夏目漱石『行人』に続く?)

 

桑の実

今週のお題「何して遊んだ?」

小学校の頃の話をしよう。

その頃はまだみんなゲームやパソコンに疎い頃で、校庭も狭いのでこれと言った遊びもなく、時の流行り廃れに任せたものばかりだった。

 

一時期ヨーヨーが流行ってた時があった。ヨーヨーと言っても普通の小ぶりのものではなく、光ったり『技』が出来たりする、ちょっとテクニックがいるやつだ。

 

私もいくつかを母親に買ってもらった。そのうち一つをとても気に入っていた。クラスのK君はそれに目を付け、貸してくれと言ったのですぐ返せと貸してしまった。遂にヨーヨーは真っ二つに分解され机の上に置かれた姿で返された。「大丈夫だ、直せるから」と言いつつもどう頑張っても直せない。私は彼の困った顔を見て遂に怒ることが出来なかったらしい。

 

またある時期は、校庭の角に生えてる桑が実って地面にぽたぽた落ちてた。私とその当時の親友文ちゃんは好奇心が湧いてどうしても食べてみたい欲を抑えられず、放課後誰もいなくなった頃落ちたばかりの綺麗めのものをいくつか洗って食べて、おいしい、酸っぱい、甘いと騒いだ。文ちゃんは性格が男勝りでスカートを履いたのを見たことがなかった。私も(その頃は)やんちゃで大人しい方ではなかったので文ちゃんと色々して遊んだ。結局は家に帰ると腹がたいそう緩くなって、トイレに何度も通うことになったが、次の日学校に行くと文ちゃんも腹の具合が酷かったと教えてくれた。そして二人して便器の中が真っ黒でなかなかグロいと大声出して笑った。

 

もう全て昔の事になってしまった話。