生々流転

日々の生活

季節の行方

自分らしく生きることは難しい。親が存命している間はできるだけ失望させたくないのは自分の性だし、就活のシビアさを体現してくれない狂言にも付き合わなくてはならない。いよいよ親の忠告により淡く幸せな大学生活から目覚めると周りはとっくに次へと動き出していた。

 

そもそも大学を就活予備校とでも考える人がいる。偏見に過ぎないが世の中の商学部がそうである。彼らは実用性だけのために勉強し、コスパとステータスの中に生きている。大学に来る必要があるか、さっさとビジネススクールにでも通えばいいのにと思う。確かに経営学も経済学も面白いが、応用面のベクトルが強すぎて学問の本質からはかけ離れ過ぎていないか。ええ本当に、ただの悪口になってしまいそうだが、ただ知りたい欲求を満たすためだけに生きることが学問だと思っていた。そこには何の目的も存在しない、虚栄心や金は勿論、社会奉仕の心さえも見えない、それ程純粋な求知心という化け物のため、対象の暗闇のためだけに存在する飽くことのない探求、ただそれだけのことなのに。

 

いつの間にか夏も終わり、研究者にもなれない、会社員にもなれない、ひたすら自身の能力の足らなさが目につき、これでもかと精進しなければならないはずなのに一つまた一つの季節が過ぎていくのを見送ることしかできない。体の後ろから押し寄せる轟くほどの時間の洪水を風で感じながらも足が硬直して前に進めない。前に進むことを待ってもくれない。このような時に気の知れた仲間の一人や二人でもいればよかったのにと思ったりしたが、時すでに遅し。

 

ここまで弱音を吐き続けても、結局すべての原因は自分にあって、マイペースに生きることができるかを決めるのも自分であり、そもそも理想に届かなかったとしてもこれまでの人生を歩んできたのは他でもない自分なので、自分らしさというのは現実逃避のための、理想の自分の代名詞でしかない。絵も描かなくなった。積んだ本は寝床の高さを超えた。遠野には行けてない。やりたいことをやらないから自分になれないのに、それ程簡単なのに何ぞ難しき事哉。

世に生きとし生けるものならば

金が好きである。通帳に刻む数字を見るのが好きだ。金の流れを考えるのが好きだ。金で人と人の間を繋げるのが好きだ。金があれば形があるものも形がないものも大方手に入る。金は信用なり。

 

夏目も好きである。一日中畳の部屋に寝転がり三四郎が門を出るまで、茶枕を抱きかかえ寝ては起き読んでは寝る暮らしがしたい。考えることは罪深き女と阿呆な男のことばかり。偶に気が向いたら絵でも描いて質素な食事で60そこそこまで生きて死ぬ。住むところはが周りの山がきれいな平屋。

 

しかしずっと一汁三菜の生活をしていると、たまに無性にフォアグラが食べたくなるに違いない。絵を描いてると、ある時には額縁が欲しくなるだろう。そして街に出るとトレンドのズボンを買いたくなるだろう。期せずに出世したかつての友人に遭遇し、今までの人生を長い林道を歩くように振り返り、似たような刺激のない光景に落胆したりしないだろうか。いざ店に入ると、喉から手が出るほど欲しいズボンが懐の届かない場所にあったりしないだろうか。のこのこと入ったお店のフォアグラの固み、豚のレバーの味がした一日で終わると同時に、きっと自分はこう考える、大人しく良き社会の歯車になっていればたいそう欲を満たせたろうにと。夏目は己の中に潜む強欲な化け物に金を与えてくれる力はない。一旦山に登ると下るのは困難だ。

 

晴れて歯車の一つになった自分は黒いペンキを身に纏い日々社会の奴隷として生きる事を誇りに思いそこそこの欲を持ちつつせかせかと生きるところが、それも短くある時また山から下りてきた好き勝手に生きるかつての友人に遭遇し、その晴れ晴れとした煩悩と無縁な顔に気づかされるだろう。紙にインクで打たれた増える数字がただの催眠術で自分はその中にどっぷりハマっており、歯車からは自らのための実りの一つや生えたことがなかった。時計を腕に嵌めて文学を辞め、筆を捨て、世に寄生して生きてきた自分の体はもはや自分のものではなく、社会というプログラムに飲まれていた。遥か高い所から未知の力が信号を出すと、ロボットのように体が勝手に動く。報酬に数字が増える。また動く。金は好きだがそれ程自分が欲しかったものかはと、夏目に問う。しかしフォアグラの味を噛み締めた者はワラビでは満足できない。

 

俗に生きれば窮屈だ。雅に身を任しても僧でない限り欲が出る。二十歳の自分は人生の岐路に立たされている。失敗はしたくないが失敗を乗り越えずに成功へはたどり着けない。何度も失敗すればいいと皆は口では言うものの人間は誰も自分の砂時計を見ることはできない。夏目と金と歯車は違う座標系上にある。とにかく世の中は生きにくい。

 

 

弟というジレンマ

今週のお題「ゲームの思い出」

 

弟が初めてゲームを手に持ったのは小学校五年生の頃であり、その頃ひどい肺炎で入院したのをきっかけに父親がニンテンドーDSを与えた。買ったソフトは太鼓の達人マリオカートだった。

 

中学生になると、スマートフォンが欲しいということで、親は中学生には早すぎると言い、代わりに親の携帯を使っても良いとのことだった。弟がスマホを欲しがったのはゲームがしたかったからだ。

 

そうして今に至り、弟はすっかりゲームが好きになって、勉強以外の時間はほぼスマホで遊んでる状態になった。もうすぐ高校入試だが、机に向かう時間は足りない。親のが塾へ通わせる。自宅ではゲームをする。親がもっと学習しろと諭す。喧嘩になる。塾が増える。自宅学習をしなくなる。成績は下がる一方。喧嘩が絶えない。それが実家の毎日だ。

 

親は塾に通わせないと勉強できないと思い込み、子供は益々強制される勉強の時間からわずかな暇をひねり出しゲームをする。本当はどれだけ学習できてるか分からない。毎日五時間ほどの塾の時間はブラックボックスだ。

 

ゲームは弟にとって毒だったのかもしれない。しかしゲームとの向き合い方を学ぶ機会を奪ったのは親だった。機会を与えなかったのも親だった。弟はゲームの主人公と成長することなくいつまでも子供だ。親が片方でもいなくなればいいと危うく思いそうになる。

 

夏という季節

夏は非日常的だ。

昔から夏は特別だった。暑苦しいのは好きじゃなかったけど、夏が来ると夏休みと誕生日が近い。プール開きに夏期講習、夏祭り、花火、夏の甲子園。青春の代名詞であり全てのハレと娯楽の集い場所で、嫌いな学校から遠ざかれるし、好きな事を好きなだけする事が許される。

 

20代になっても、夏は特別な季節。ふと往事を思い出したり、新しい事を初めてみたり、バーゲンと飲みで羽目を外したり、それは夏だから許される。年中そんな事をしてたら締りがなくて駄目だ。自分の中では夏ならなんでも許される。1日中雲を眺めてるのも山手線を乗り回すのも。過去にしがみつくのも。

 

今年の夏はとりあえず遠くの東北の山に行ってみたい。海より断然山が好きだ。山にはやまびこがいるけど海にはいない。泳げないし。

 

まあ、つまりは夏は好きなんだ。

1年ぶりの更新

2018年も半ば。

 

実家で安室奈美恵の神々しさに酔倒されてより6か月

同窓会で悔いだけを残して同窓会から振袖を払い5か月

湯沢の雪の映えるまま温泉に浸りて4か月

京都の月と桜に心の騒がしさ隠しきれずに3か月

卯月の風に憂いを乗せたま新学期を受け入れて2か月

ブラックコーヒーを覗くような行く先に戸惑い1か月

愈々ただ嫌々と時間の底を漂う深海魚になり始め

 

私はなにをやっていたんだ。

自分なりに楽しい半年を送ってきたけど

理想と現実の間には未だマリアナ海溝のように深い溝があって

もう一つの世界線に生きる何もかも手に入れた自分が羨ましい

立ち止まればため息ばかり

未来はブラックコーヒー

遊び人だけど楽しければいいよね

また、誘いに乗ってしまった。

コミュ障、アスペ、年齢=彼氏いない歴のチェリー。また違う男と遊びに行く。

今までご飯や映画に行った男の数だけは数えられるけど、肝心の彼氏の作り方をまだ知らない。いいなと思うことがあっても自分からは告らないし何よりリスクを負いたくない。遊んで終わり、奢られ過ぎて心は微動だにしない。わーいラッキー、浮いた食事代でお洋服が買えるーくらいしか思ってない。飯は美味しいしそれなりに楽しい、それでいいじゃん。

ご飯に誘われたらとりあえず行く。余程生理的に嫌じゃない限り、二回目も行く。だって断れるほど強くないし、気まずくなりたくないし、スケジュールは真っ白じゃ嫌だし、嫌われたくないし。一人も楽しいけど気分転換に友達と出かけたいし、それがたまたま社会人の先輩や男友達だった話。女友達も好きだし、甘いもの食べに行ったりするけど、そっちは奢ってもらえないじゃん。

きっと好きな人と行くならならもっと楽しいだろう、彼氏と行ったらどんなにいいだろう。でもいまは彼氏がいないから仕方ない、妥協して気がない人の誘いにも乗ってあげる、隙があれば誘ってあげる。楽しければいいでしょ、私が。

好きなことより自分にしかできないことを

椎はご存知でしょうか。

 

夏目漱石『三四郎』にも出てくる常緑樹で、葉の裏が金色で風が吹くとよく分かる木です。

そのシイ属の木で、スダジイという種があります。

 

スダジイは元は陰樹であり、日陰が好きなので林の中ではできる限り陰になっている所にいます。

しかし、イスノキという種が生えていると、スダジイは陽樹の役割をします。

日当たりが多い場所しか残されていないので、スダジイは競争をやめたのか、自分が日当たりの所を選ぶのです。そうすることでイスノキもスダジイもめでたく生存できるわけです。

 

このように生物学上では、その種の役割という意味で「ニッチ」という言葉を使います。

自分の好きな場所を選んでばかりでは可能性も少なく、時に身を削る競争に巻き込まれて滅びます。好きだからといってみんなが出来ることをやってばかりでは当然負けるリスクが大きいのです。決して競争がいけない訳では無いのだが、もし好きな事以外に自分にしかできない事があれば、それを職にした方がリスクも低いし成功する確率も大きいに決まっているのです。実際関東ではスダジイはイスノキより優占している(数が多い)。

 

こんな当たり前の正論を述べるなんて自分らしくないが、常々生物から学ぶ事は多いなと思い投稿しました。誰かの役に立てたら幸いです。